理不尽に脈絡はない
ログインすると、頬杖をついて、外を眺める先輩がいた。
最終ログアウト地点である温泉街、未だに修復中の温泉宿の一室で、先輩は憂鬱そうに外を眺めていた。
戻ってきたボクを見るなり、彼女は顔を輝かせる。
「良かった……戻ってきた……」
「いや、そりゃあ、戻ってくるでしょ。今更、引き返せないし。現実には、嫌なモノ抱えてるもんでね」
先輩の両目に、涙が浮かんでいるのを視て、ボクはぎょっとする。
「いやいや、なんで泣いてらっしゃるのよ。寂しかったら、先輩も一度、ログアウトしてれば良かったじゃん。
躾けられた犬じゃあるまいし、自由を謳歌する権利は誰にだってあるよ」
「……うん」
割れ落ちた壁の隙間に腰掛けて、両足を揺らしている先輩の横に座る。
こんなクソゲーでも、湖面に映り込んだ野山は美しく、崩壊した黄金御殿の残骸の鈍光には趣があった。どこまでも透き通るように広がる青空は、綿密に演算された雲が流れている。
世界を見つめる先輩は、どことなく、哀しそうに微笑を浮かべていた。
「……なんかあった?」
「別に」
「泣きながら『別に』と宣う美少女を放っておいたら、死罪に処するって法律がボクの心にあるのよ♡
話せるもんなら話したら? なんであろうとも、吐いた方が楽になるのが人情よ?」
ゆっくりと、息を吐いた先輩は、ボクを見つめる。
「ミナトは、あたしを置いていったりしない?」
「荷物になるようなら置いてくけど……」
苦笑した先輩は、ボクの頭を撫でる。
「人間って自分勝手ね」
「そりゃあ、ただの動物だからね」
先輩は、ぶらぶらと、足を揺らす。
「ミナトは、小さい頃に読んだ絵本の続きを知ってる?」
目の前に広がる景色に語りかけるようにして、先輩はささやいた。
波立つことのない綺麗な瞳が、ボクの心に波紋を呼ぼうとしていた。その呼びかけに答えようとして、ボクは緩慢に口を開く。
「いや、知るわけないよ……そこで、絵本は終わりなんだから」
「あなたたちにとっては、そうよね。
でも――」
言葉を切って、先輩は哀しそうに笑った。
「あなたが忘れているだけで、その続きは存在してるのよ」
「…………」
「あなたに忘れ去られても、ずっと、それは続いてるの……もしかしたら、あなたを待っているのかもしれない……人知れず、涙をこらえて、いつかきっと会えると信じて……静かに、待っているのかも……」
はぐらかすような問いかけに、ボクの口から答えが滑り落ちることはなかった。時間切れは、とうの昔に訪れていたみたいで、待つつもりのない彼女は口端を曲げてから立ち上がる。
「このイベントが終わっても、会いに来てね」
「いや、なにをお別れみたいに……会おうと思えば、いつでも会えるでしょ? 今度は、現実で会えばいいじゃん。
それに、イベントは、まだ始まったばかりで――」
「古いゲームをプレイしたの」
ボクの言葉を切り捨てた先輩は、笑顔に真意を滲ませて、子供に言い聞かせるみたいにして言った。
「あたしはね、そのコメディーチックな物語が好きで、楽しいお話を求めて楽しんでいた……でも、途中で、急にたくさんの人が死んで……笑えるようなお話は少なくなってくる……あたしは、そんなもの望んでなかった……こんなの詐欺だって思ったわ……でもね、その一方で、あたしの冷めた心はそれを許容していた……」
無機質な瞳が、ボクを捉える。
「いつまでも、笑ってはいられない」
「…………」
「ミナト、喜劇と悲劇は、表裏一体なのよ。
このファイナル・エンドをプレイしてきた、あんたならわかるでしょ? 現実味のない悲劇は、喜劇と成り得て、表象に浮かび上がってくる」
なぜ、このタイミングで、こんな話をするのか。
――湊の誕生日は、スペシャルバージョン!
あんなことを思い出した時に、どうして、そんな酷いことを言うんだ。
「ミナト」
先輩は、笑って、ボクの両手を握り締める。
痛いくらいに。
あたかも、離す気はないと言わんばかりに、彼女は思い切りボクの手を握った。
「現実と虚構の差異は、なんだと思う?」
「せ、せんぱ……手、いた――痛い?」
驚愕で顔を上げると、先輩の顔面に漣が立っていた。
先輩の顔を、埋め尽くす赤。
テレビ画面に映る砂嵐みたいに、大量の『ERROR』という表示が、先輩の顔中を埋め尽くしていた。細かい虫が這い回るみたいにして、『ERROR』の文字が蠢き回る。
ひゅーん、ひゅーん、ひゅーん。
バグったみたいな謎の電子音。先輩の顔の表象が、次々と張り替えられていく。
歴代の米国大統領、一昔前のアイドル、泣いている赤ん坊、流行っているアニメのキャラクター……チャンネルを切り替えるみたいにして、奇天烈な顔面が表示される。
現実味のない光景。
急に通り魔に刺されたみたいな、不慮の事故に巻き込まれた実感が、怖気と共に背筋を駆け上がってくる。
そして、その切り替えは止まる。
ぽっかりと、黒色の穴が顔に空いていて――その空洞から、音が漏れる。
「正解は――」
ボクの両手に爪が立って、激痛で脳が痺れる。
純黒の下で、誰かが、笑っているような気がした。
「生きている実感」
ボクは、ただ、立ち尽くし――
「ミナトッ!! ログアウトしなさいッ!!」
黒色が、先輩の顔に変わり、強烈な叫声が打ち上がる。
「早くッ!! 間に合わなくなるッ!! ダメ!! 権限がっ!! お願い、あと数びょ――湊くんっ!!」
その顔が――ボクの――ミナトの顔に変わる。
蒼色の髪をもった少女は、顔を歪めながら、必死に叫び続ける。
「お願い!! ログアウトしてッ!! もう、お姉ちゃんを止められない!! 最初から、途中で始めるつもりだったのよ!! わたしが油断しきっている状態で!! 始まるとは思わない、このタイミングでっ!!
わたしのことはいいから!! 湊くん、行ってッ!!」
なにが、なにが起こっ――ボクは、ウィンドウを呼び出して、ログアウトボタンを押そうとし――豚浪士が、オンライン状態になっているのを見つける。
凍りついた思考、心臓の鼓動が止まった気がした。
一瞬の停止、すぐさま、ボクは彼女を呼び出す。
『おぉ、主殿! 久方ぶりですね!
この豚浪士、麗しき姫を守るために参上し――』
「今直ぐ、ログアウトしろッ!! 今直ぐだッ!! なにも聞かずに、ログアウトボタンを押せッ!! 早くッ!!」
『あ、主殿? な、なにが――』
耳をつんざくような、サイレンの音。
唐突に止んで、世界が静止する。
今度は、大音量で、懐かしみのある音楽が流れ始めた。
郷愁を思わせるメロディー……『夕焼け小焼け』が、空気中にささやきかけて、世界が夕暮れに染まっていく。ログアウトボタンを連打するボクを嘲笑うように、帰宅を促す筈の曲が、帰還を許すまいと鳴っていた。
『あ、主――み、ミナトちゃん!? ろ、ログアウトボタン、押せないよ!? な、なにこの曲!? い、痛っ!! え、な、なんで、痛いの!? コレって、ゲームで、み、ミナトちゃ――』
通信が切れる。幾ら呼びかけても、応答はなかった。
依然として、ログアウトボタンは反応しない。何度、押したところで、現実世界には帰れずに、焦りだけが募っていった。
ボクの焦燥感を煽るかのように――間延びした声が、聞こえてくる。
『ただいまよりー』
あたかも、校内放送みたいな気軽さで、その声は言った。
『ただいまよりー、この世界は現実となりましたー、皆さんがこの世界で死亡した場合ー、現実世界の肉体にも同等の負荷を与えー、死んでもらうことになりましたー』
意味不明な宣告に、肌が粟立つ。
理解しきれなくて、ボクは、呆然と夕焼け空を見上げた。
『あなたたちがー、この世界を否定して、現実世界に帰還するためにはー、このファイナル・エンドをクリアする他ありませんー。互いの命運をかけてー、この私、アラン・スミシーと勝負しましょー』
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
ミナトの顔をした彼女は、泣きながら、ボクに謝り続ける。
「あなたのお母さんとの約束、守れなくて……ごめんなさい……もう、わたしには止められない……ごめんなさい……ごめんなさい……」
そのセリフに、鳥肌が立った。
なにもかもが解き明かされていく感覚、ボクは、ゆっくりと目を見開く。
「もしかして……キミは……」
謝罪を繰り返していた彼女の顔が消え、先輩は意識を失って倒れた。
なおも、声は続いている。
『あなたたちは、力を合わせてー、最終領域に到達しー、終着点に辿り着かなかればなりませんー。きっと、数々の困難が、あなたたちを襲うことでしょー』
戯けるような声が止んで、静けさが降ってくる。
しんしんと、冷えていく沈黙、固唾を飲んでいたボクの耳に言葉が届いた。
哀しみに、一匙の虚無をまぶした言の葉が。
『私は、最初から……あなたたちを笑わせるつもりも、楽しませるつもりもなかった』
悲しい声は、告げる。
『最初から、私は――世界を創ろうとしていた』
ボクが広げていたウィンドウには、今までにすれ違った人たちのログイン状態を示しているアイコンがあって――ぽつぽつと、まるで雨が降るみたいにして、緑色のオンライン表示が黒色に染まっていく。
どんどん、どんどん、緑は黒に変じる。
加速度的に、人の死が、視覚化されていく。
『言っておくが』
この世界に――声が響き渡る。
『このイベントは、夢じゃない』
某日未明。
ファイナル・エンドのアクティブユーザー数、86032人。開発者『アラン・スミシー』による宣告から24時間が経過、ゲーム内公式発表から抜粋。
初日死者数――33084人。
この話にて、第三章は終了となります。
ここまで読んで頂き、本当にありがとうございました。
次話より最終章となりますが、引き続きお読み頂ければ幸いです。