コレは、奇跡の物語だ
目が覚める。
ソーニャ・ストレルカ……ファイナル・エンド内での呼称は『豚浪士』……彼女は、仰向けのままで、目覚まし時計の音を聞いていた。
カチコチ、カチコチ、カチコチ。
ゆっくりと、ぼやけていた視界が像を結ぶ。
聞き慣れた秒針の音だった。
真っ白な天井、シャンデリア調の照明、貼り付けられた星型の蓄光テープ……寝返りを打ってみれば、小学生ひとり用とは思えない程に、広すぎる自身の寝室が視える。
大量に並べられた自作のグッズ。
世には出回っていない、ソーニャお手製の一品。
蒼色の髪を持った少女の製品は、ぬいぐるみにあみぐるみ、壁掛けカーテン、ポスター、プロマイド、抱き枕に布団カバー……自分を救ってくれた少女が、笑顔で、ひとりぼっちのソーニャを支えてくれていた。
「…………」
ぼうっとした意識で、彼女は、床に転がっているバイオリンケースを見つめる。
両親に命じられて、習っているバイオリン。
昔は、大嫌いだった。
ろくに帰ってこない父と母を待つ間、真っ暗な部屋で、彼女はひとり、バイオリンを弾き続けていた。その物哀しい旋律は、己の孤独を際立たせるようで、月の光を浴びる己以外は消えてしまったかのように思えた。
『音楽? あぁ、知り合いの婆さんが、エレキギター弾いてて。そういうの、ロックで良いよね。楽器、弾ける人は格好いいと思うなぁ』
でも、配信内で、ミナトがそう言った瞬間――バイオリンが楽しくなった。
好きな人が好きなことは楽しい。
バイオリンを弾いている間、ミナトが、椅子に座って鑑賞してくれているように思えた。だから、一生懸命、バイオリンが上手になるように頑張った。ミナトのことを想って、作曲をしてみたら、思いの外、楽譜を書くことが楽しいことに気づいた。
――ボクがいる
思えば、ソーニャは、彼女に救われ続けてきたのだ。
――ボクがいる
あの一言に。
――ボクがいる
たったひとりのVtuberに。
――ボクがいる
ソーニャ・ストレルカは――救われ続けてきたのだ。
ひとりぼっちだったソーニャに、手を差し伸べてくれたのは、たったひとりのVtuberだった。
だから。
だから、だから、だから。
「……ミナト、ちゃん」
目を見開いて、ソーニャは、完全に覚醒し――
「ミナトちゃん!!」
躊躇うことなく、彼女は、ファイナル・エンドに再ログインをした。
彼女の部屋の外では、一匹の蝶々が羽ばたいていた。
蝶の羽ばたきが、世界の裏側で竜巻を起こす。
誰も、たったひとりの女の子の、ちっちゃな勇気が、大きなうねりを起こすとは思いもしない。
それは、もしかしたら、奇跡と呼ばれるのかもしれない。
現実は、奇妙に入り組んでいる。
取るに足らない蝶の羽ばたきが、重なり続ければ、竜巻どころか世界を変えるのかもしれない。
神のみが俯瞰できる巨大な人々のうねり、繋がりは、レアの目指した『シャルひとりの世界』とは裏腹で、だから、彼女の計算外の要素だった。
もし、ソーニャ・ストレルカが、ファイナル・エンドへの再ログインを躊躇っていれば、この物語は、全く違った終わりを迎えていただろう。
もし、レア・クロフォードが、ログアウトだけではなくログインも禁じていれば、この物語は、全く違った様相を描いていただろう。
もし。
もし、もし、もし。
もし、もし、もし、もし、もし。
その『If』は、連綿と受け継がれて、人々の間に繋がっている。
誰かが怒れば、誰かが悲しむ。
誰かが死ねば、誰かが生きる。
誰かが幸せに、誰かが不幸に。
世界とは、現実とは、人生とは、その繋がりによって常に変じている。
現実とは繋がりの世界で、つまるところソレは、MMOという機構に酷似している。
大量の人間が、大量に繋がって、大量に干渉し合う。
MMOは、人々の繋がりによって成り立っている。
だからこそ、レアの目指した理想の世界は、たったひとりのための世界は、MMOという機構を否定していた。
シャルロット・クロフォードは、ファイナル・エンドを創った。
それは、人々の繋がりの世界で、現実を模倣した夢の世界でもある。
レア・クロフォードは、ファイナル・エンドを創り変えようとした。
それは、人々の繋がりをなくして、虚構を模倣した理想の世界でもある。
もし、奇跡が、蝶の羽ばたきによって……人々の繋がりによって、物言わず生じる予想外の事象を言うのであれば。
レア・クロフォードが目指した世界では、決して、奇跡が起こることはなかっただろう。
だから、コレは、このタイミングでしか有り得なかった。
ファイナル・エンドで、生きる人々の動きが、意思が、正義が、うねりとなって重なり合い、世界を変えようとしていた。
シャルの目指した夢が、結実しようとしていた。
だから、この物語は、奇跡と呼ばれるのかもしれない。
蝶が――羽ばたいている。
虚構か、現実か。
現実か、理想か。
理想か、奇跡か。
誰も、その結末を、まだ知らない。
誰しもに、幸福な結末が待っているとは言えない。物語は、絶対に、ハッピーエンドで終わるなんて誰も言っていない。奇跡が絶対的な幸せを運んで、気持ちよく、本を閉じられるなんて言えはしない。
だが、我々は、人間は。
物語を――人生を読み続ける。
奇跡が、人の繋がりで成り立つのであれば。
人生は、奇跡の連続で成り立っている。
物語は、幸福と不幸、その連続性で進み続けている。
現在から、奇跡が起こる。
その結果を、誰も知らない。
ただ、蝶は羽ばたいている。誰も彼もが、その行く先を知らず。奇跡の到達点に、幸福が隠されているかはわからない。
コレは、奇跡の物語だ。
MMOと呼ばれる機構で成り立つ現実が、引き起こされた虚構の奇跡が、ひとりの少年を『おしまい』へと導くための物語だ。
これから、ひとりの少年の現実が配信される。
その奇跡を、人生を、物語を視ることになるだろう。
そして。
白亜湊の物語が――終わる。