溶けた雪は、空に消える
「…………ん」
呼ばれている。
「…………ちゃん」
目を開ける。
「お姉ちゃん」
彼女は、目の前の妹を見つめる。
愛らしい笑顔で、シャルは、金色の髪の毛を掻き上げる。
「寝ちゃったの?」
「あぁ……すまない……チェスの途中だったか……?」
「んーん、いいよ。だって、コレ、どーせシャルの敗けだし」
「そうか」
暖炉の中で、火が燃えている。
曾祖母が使っていたと言う安楽椅子、レアは、その背もたれに全身を預けていた。シャルがかけたホワイトのブランケット、その温かさに眠気を覚えながらも、彼女は伸びをした。
「今、何時だ?」
自分の膝に顎を載せて、こちらを見上げるシャルの頭を撫でる。目を細めたシャルは、12ドルの腕時計に目をやって「18時」と答える。
眼前の小さなテーブルには、チェスボードが置いてある。
シャルの言う通り、ここから逆転する目はほぼないと言って良いだろう。だが、まだ、ひっくり返せる。もし、シャルが、まだ『プレイする』と言っていれば、この他愛もない勝負の決着の行方はわからなかったかもしれない。
急に、シャルは顔を上げる。
「お姉ちゃんっ!」
彼女は、嬉しそうに、窓の外を指差した。
「雪!」
ちらり。
ちらり、ちらりと。
雪が降っていた。
窓外を舞う純白の精霊は、そよ風に吹かれて羽ばたく。
舞い散る純白は、いずれ、地に落ちて積もるだろう。人知れず。レアたちが眠りに就いている間に、せっせと、その白い版図を広げる。
「…………」
だが、それも、無駄に終わる。
どれだけ、白色を広げようとも、いずれは溶けて消える。
なぜ、雪は積もるのだろうか。
無駄だとわかっているのに。意味はないとわかっているのに。徒労に終わるとわかっている筈なのに。
雪は降って、雪は積もる。
人間も同じだ。
無駄でも、意味はなくても、徒労に終わるとしても。
人間は、生き続ける。
雪と同じように、人間の生にも意味はない。
だからこそ、人間は、その生に意味を見出そうとする。意味はないという答えはわかっていても、方程式に価値をくっつけようと躍起になって、イコールに意味を求めようとする。
レア・クロフォードも、そのひとりだった。
そして、その意味は、もう見つけていた。
「綺麗だね、お姉ちゃん」
「……あぁ」
シャルロット・クロフォード……妹だった。
気づけば、彼女は、レアの人生に寄り添っていた。一緒にお昼寝をすれば、いつも、シャルはレアのタオルケットを取るんだと、母が笑っていた。
シャルが泣いた時は、誰よりも早く慰めた。
シャルが転んだ時は、誰よりも早く駆け寄った。
シャルが挫けた時は、誰よりも早く手を差し伸べた。
シャルは、勉強が出来ない。運動だって、褒められたものじゃない。根気がないので、何事も、直ぐに放り出してしまう。
いつも、いつも、いつも。
シャルの世話を焼いているうちに、ふと、レアは気がついた。
この子には、わたしがいなければダメだ。
初めての感覚だった。
きっと、母も父も、レアが居なくても生きていける。学校の先生も。同級生たちだって、どうとでもなる。
でも、シャルは。この子は。
きっと、ひとりでは生きていけない。レアと言う姉の存在がなければ、どこかで、野垂れ死んでしまう。
そんな感覚があった。
同時に、いつも、レアの後を付いてくる妹の存在に愛情を覚えた。彼女が、後を付いてくるだけで、レアは、この世界に存在していても良いように思えた。少なくとも、シャルはレアを求め、そこに居てくれるように想っている。
それは、とてもかけがえのないことのように思えた。
「…………」
レアは、無言で、シャルの手を取る。
「お姉ちゃん?」
重なる。
赤ん坊の時、プリ・スクールに通っていた時、縦横無尽に駆け回っていつも手のひらが擦りむけていた時、生意気にもアイスを奢らせようと手を振るようになった時……そして、現在、妹の手のひらは大きくなった。
この手のひらは、どこまで、大きくなるんだろうか。
レアは。
レア・クロフォードは。
どこまで、必要になるんだろうか。
いずれ、妹の手のひらの大きさが、確認出来なくなった時……誰かに、妹の手のひらをゆだねる時……せめて、それまでは、この手のひらを守ろうと思う。
レアは、シャルの手を握る。
「お姉ちゃんが、ありとあらゆることからお前を守るから。
だから」
微笑を浮かべて、その冷たい手に誓った。
「お姉ちゃんから離れるなよ」
シャルは、笑って、その手を己の頬につけた。
「知ってるよ」
満面の笑みで、シャルは、言った。
「だって、お姉ちゃんは、シャルのヒーローだもん!」
「おいおい、さすがにアメコミみたいにはいかないぞ」
レアは、苦笑する。
「え~! お姉ちゃんは、凄いんだから、空を飛んでシャルを助けに来てよ!」
「わかったわかった」
妹の頭をくしゃくしゃに撫でて、レアは笑い声を上げる。
「どんな手を使ってでも」
レアは、笑った。
「お前を助けるよ」
長剣が――背に突き刺さる。
「死ね!! 死ね、死ね、死ねッ!! 死ね死ね死ね死ね死ねッ!!」
何度も何度も何度も。
ミナトの背に、剣先をねじ込む。
大量の血にまみれて、目を見開いたレアは、必死の形相で刺し続ける。
「シャルの!! シャルの幸せを邪魔をするヤツは死ね!! くたばれ!! 死ね!! 死ね、死ね、死ねぇ!! お前たちは、全員、死ねッ!! わたしは!! わたしは!! わたしはっ!!」
ぴくぴくと、痙攣するミナトに馬乗りになる。
赤黒く染まったレアは、甲高い声を上げながら、何度も彼の内臓をえぐる。
「シャルを」
泣いている妹を見つめて、レアは、赤色の手を伸ばした。
「妹を……助けに……来たんだ……」
泣きながら、後退る妹に、彼女は手を伸ばす。
「わたしは……わたしは……空を飛ぶんだ……」
祈るように。
レアは、大事な妹に手を伸ばす。
「だって……わたしは……」
彼女の視界に、雪がチラついて――
「シャルの……ヒーローだから……」
意味も為さずに、溶けていった。