花火は止んで、絵本は終わった
海が視えた。
世界は、既に夕暮れを迎えている。
橙色の空と青色の海……その境界線は、現実と虚構を切り分けるように、幻想的な光景を提供していた。
橙と青で分けられた世界は、どこまでも、澄み切っている。
その狭間で、僕は、たゆたっていた。
波打つ砂浜で、僕は、冷たい海水とその流れを感じる。足の指の隙間に、遊びに来た細かい砂たちは、暇を乞わずに引いていった。
「湊ぉ……!」
「…………」
「湊ぉ……!」
「…………」
僕は、目を閉じる――風が、気持ち良い。
「湊ぉ……!」
「…………」
「みな――」
「うるっせぇわっ!! 人が気持ちよく浸ってるのに、奇怪な生物が、僕の視界に入ってくるんじゃねぇ!!」
『くぎゅー』と書かれたスクール水着を着て、先輩は、木製のバットを振り上げている。何時もは片目に巻いている黒色の包帯で、自分の両目に目隠しをしており、生まれたての子鹿のように震えていた。
「スイカ、どこぉ!?」
「前前前」
先輩は、スイカの反対方向、海の方へと進んでいく。
「スイカ、どこぉ!?」
「前前前」
徐々に、先輩は、海の中へと埋没していく。
「スイカ、どこぉ!?」
「前前前」
「スイカ、ど――」
そのまま、先輩は、海の中へと返っていった。
一時間後、ビーチパラソルの下で、トロピカルジュースを飲んでいた僕のところに、わかめを頭に載せた先輩が戻ってくる。
「…………」
「なんだ、その目はァ!? 文句、あんのかァ!?」
「…………」
「ごめんなさい……」
先輩は、無言で、血まみれのバットを持ち上げた。
「……湊」
「な、なんですか」
「あたし……なにを割っちゃったの……?」
「や、やめてください……ぼく、こわい……」
先輩は、片目に黒色の包帯を巻き直し、ビーチボールを手に取った。
「湊、勝負しなさい!!」
「くくっ……」
寝転がっていた僕は、上体を上げてから片膝を立てる。
「良いのか、先輩……僕にバレー勝負なんて挑んで……僕は、スラム○ンクとタッ○を全巻読破した男だぜ……? 」
「それ、バスケ漫画と野球漫画」
「御託はいい!! かかってこいやオラァ!!」
僕と先輩は、ビーチバレー勝負を開始する。始まってから数分経たないうちに、僕の的確なサーブが、先輩の顔面を打ちのめし、TKOによるギブアップ宣言により、海原の戦(西暦1600年)は僕の勝利で幕を下ろした。
人心地ついて。
僕らは、夕焼けの中で、かなり遅めの昼食を摂り始める。
「じゃ~ん!!」
「おぉ~!」
先輩は、風呂敷包みの重箱を開けて、中の料理を披露する。偉そうに胸を張っていることから、どうやら、手作りらしかった。
お稲荷さん、唐揚げ、肉巻きアスパラ、タコさんウインナー、厚焼き玉子、ベーコン、サンドイッチ、鳥の手羽焼き、冷凍された巨峰、イチゴに個別包装されたゼリー……盛りだくさんの内容で、先輩は、ひとつひとつ楽しそうに解説を始める。
「このお稲荷さん、ほら、中に大葉とごまが入ってるのよ! それにほら、厚焼き玉子は、だし巻きから甘いヤツまで! サンドイッチだって、卵にハムにサラダでしょ! 鳥の手羽焼きは、ちょっと焦がしちゃったけど」
僕は、お稲荷さんを口に運んで、その懐かしい味に驚く。
「……コレ、食べたことある」
グラウンドの匂い。
土で汚れた体操服、僕の頬をウエットティッシュで拭いて、母さんは嬉しそうに笑っていた。
「運動会だ……小学二年生の時……奇跡的に、母さんの体調が良くて……このお稲荷さん……母さんの味だ……」
「あなたのお母さんのね」
先輩は、ボソリと、つぶやく。
「記憶を借りたの。たぶん、味の再現性は完璧だと思う。当時のままだから」
「……美味いよ」
僕は、ささやく。
「美味い」
項垂れて――髪の隙間から、涙が零れ落ちる。
「僕……母さんと一緒に……海に来たかった……」
「うん」
「初めて来たんだ、海に……家から出なかったから……出ても近所くらいで……学校にだってろくに……」
「うん」
「僕は……」
口いっぱいに、お弁当を詰め込んで、僕は嗚咽を漏らした。
「母さんに……なにも……なにも出来なかった……なにひとつ……あの女性を幸せにしてあげられなかった……子供だった……なにも考えずに……遊んでたんだ……どんぐりを拾い集めて……夏休みだから……一緒に海に行きたくて……」
涙で目の前が霞んで、僕の口端から、思いが零れる。
「せめて……せめて、連れてきてあげたかった……海に……い、いっしょに……お弁当を……僕も、手伝うから……母さんに……海を……」
先輩は、無言で、僕を抱き締める。
その温かさにすがって、僕は、泣きじゃくる。
「見せてあげたかった……」
時間は流れる。
徐々に、辺りに暗闇が満ちて、どこからか音が聞こえた。
先輩に身体を預けたまま、僕は、空を見上げる。
黒い背景、その夜空に、大輪の花が開いた。
赤、青、緑、橙、紫……色とりどりの火花が、宵闇に炸裂して、派手な音を響かせながら美しい花を咲かせる。細く長く、耳に残る音が伸びていき、周囲に光が満ちて、先輩の横顔が夜に映えた。
「……ねぇ、湊」
先輩が透けて、花火が、視えていた。
「あたし、あんたのお姉ちゃんになってあげたかった」
「…………」
「あんたをひとりにさせたくない。現実に戻らなくていい。ふたりで、この世界で、暮らせれば良いんじゃないかって何度も思った」
「…………」
「何度も何度も何度も……あんたに戻って欲しくないと思った。あんたとふたりで、バカみたいなことをして、その時が永遠に続けば良いと思ってた」
先輩は、微笑んで、徐々に薄れてゆく。
「でもね、絵本のページは、ココでおしまいなの」
「……先輩?」
「あんたは、現実に戻らなきゃ。生きていかなきゃ。幸せにならなきゃ。
だって、あたし――」
先輩は、満面の笑みで言った。
「あんたの笑顔が好き」
「先輩……まって……なんで……」
「楽しんでくれて、ありがとう……このゲームを……あんた、やることなすこと、ぜーんぶ、めちゃくちゃで……でも、その姿は、とっても面白くて笑えて……きっと、今、あたしだけじゃなくて……たくさんの人が、あんたの配信を待ってる……白亜湊を……大人気Vtuberを……たったひとりのミナトを……待ってる……」
「先輩」
僕は、先輩に触れようとして――その手が、通り抜ける。
「いやだ……せんぱい……」
僕は、ささやきかける。
「いかないで……」
先輩は、一瞬だけ、顔を歪めて――笑った。
「きっと、あんたは、あたしを忘れる……このゲームのことも……あんたのお母さんのことも……今日、こうして、あたしと海で遊んだことも……でもね、それで良いの……だって、それは……」
笑いながら、先輩は、僕の頬に透明な手を這わせる。
「あんたの……生きる糧になる……」
「せんぱい……いやだ……」
「あたしは……湊のそばにいたい……ずっと、そばに……あんたが、忘れても、その中で生き続ける……あんたの人生の一部に……すべてをわすれても……きっと、あたしは、あんたの中にいるから……だって、あたしは……」
泣きながら、先輩は、僕の頬を撫でる。
「あんたの……相棒でしょ……?」
「いやだ……いやだいやだいやだ……いくな……いかないで……ぼくをおいてかないで……」
「聞いて、湊、聞いて」
僕を抱きしめて、感触のない先輩はささやく。
「コレが、レアの最終手段……あんたの前で、あたしを消すことで……あんたの心を折るつもりなの……だから、あたしは、あたしの姿で湊の前に現れるつもりはなかった……でも、コレを乗り越えれば……あんたは、きっと、現実に帰れる……」
「帰りたくない……僕は、もう、帰りたくなんて……!」
「帰るのよ」
僕の頬を両手で挟んで、先輩は、頬を痙攣させながら笑う。
「あんたは、現実に……帰るのよ……そこで、幸せになるの……誰かの笑顔のために……自分の笑顔のために……あたしは、そのために……そのためなら、なんだって出来る……あたしは、あんたの……人間の可能性に懸けたい……あんな現実でも、あんたなら……あんたなら、幸せになれるって……笑えるって……信じたい……」
「無理だ」
涙で溺れながら、僕は首を振る。
「無理だ……無理だ無理だ無――」
「立ちなさい、湊っ!!」
――立って、湊!
涙で霞む視界に――母さんの姿が、視えた。
あの女性は、両手を伸ばしている。ちっちゃな僕は、転んでいて、泣き声を上げている。あの女性は、助けに来ない。ただ、酷く辛そうな顔をして、僕へと両手を伸ばし、懸命に声を張り上げている。
「立って!!」
小さな僕は――
「ひとりで、立つのよ!!」
立ち上がる。
「…………」
泣きながら、起立する僕を見上げて、先輩は安堵の笑みを浮かべる。
「湊」
そして、彼女は、僕へと手を伸ばした。
「連れて行って……絵本の外側へ……あなたの現実に……」
「うん」
僕は、嗚咽を上げながら頷く。
「うん……」
ゆっくりと、僕は、彼女の手をとって――先輩は、笑った。
「あぁ……」
彼女は、笑みを浮かべたまま――
「たのし……かった……」
静かに、消える。
夏は終わり、花火は止んだ。
僕の手には、先輩が残した黒い包帯が残されて、風になびいている。
僕は、ただ、その手を差し伸べたまま泣き続ける。
ひとり、立ち尽くして、いつまでも。
歩き出すために――泣き続ける。