夏は終わる
――どんぐりを100個集めれば、願い事が叶うらしいよ
僕の元にやって来て、必死な顔つきで葵はそう言った。
「あのね、本当なの! 隣のクラスのマナちゃんがね! どんぐりを100個集めたら、お父さんの病気が治ったんだって! みんな、言ってるの! 本当だよ! だから、ね! どんぐり、一緒に集めよう!」
○○すれば、願いが叶うなんて絵空事、誰が最初に言い出したんだろうか。
流れ星に3回願い事を唱えればとか、四つ葉のクローバーを見つければとか、同じ名前の人に挟まれればとか。
たぶん、誰もが、一回くらいは試してみた筈だ。
年月を経て、色々な物事を諦めて、擦り切れてなにも感じなくなるまでの間……純粋無垢で、世界はキラメキで満ちていると信じていた子供時代。
僕らは、世界が己を愛していると信じていた。
自分の願いは、いつか、叶うと思っていたんだ。
「……わかった」
僕は、笑顔で了承し、葵とふたりでどんぐりを拾い始める。
陽光が差し込む小さな公園。
ふたりで、かがみ込み、真剣な顔つきでどんぐりを拾う。ベンチに座っていた老夫婦が、憧憬の眼差しで、僕らを見つめていた。
上を見上げれば、大木がある。
木の葉が透き通って、綺麗な葉脈が視えた。
ぴょん、ぴょん。
カエルみたいに跳ねながら、葵は、真剣そのものでどんぐりを拾う。
たぶん、10歳の時の僕も真剣だった。どんぐりを100個集めれば、母の病が治って、またふたりで暮らせると思っていた。
「湊」
顔を上げると、葵は、こちらをじっと見つめていた。
「湊のお母さんが治ったら、一緒になにしたい?」
「……そうだね」
僕は、どんぐりを拾いながら、願いを口にする。
「母さんの手料理が食べたい」
「うん」
「三人で、今度こそ海に行きたいよね」
「うんうん」
「休日の夜に、ふたりで協力プレイのゲームをしてさ」
僕は、笑う。
「『なんだ、このクソゲー!!』とか笑いたい」
「全部、叶うよ」
葵は、僕の手を握る。
「全部、私が叶えてあげる」
「……ありがとう」
僕たちは、ふたり、互いの両手を握り込んで祈る。
天使が祝福するかのように、陽の光が差し込んで、僕らを照らしていた。罪のない子羊に、永遠の幸福を約束するかのように。
「……湊」
目を閉じて、葵は、僕の額に自分の額を付ける。
「祈って」
「……誰に?」
「神様」
「そんなもんいないよ」
「だったら」
葵は、目を開けて、僕を見つめる。
「私に……祈って」
僕は、目を閉じる。
祈りの形で組んだ両手に、葵の両手が重なるのを感じた。肌を通したあたたかさが、その実在感を与えてくる。目の前の葵は、虚構で存在しない筈なのに。あたかも、そこに、現実として備わっているかのような。
「……母さんの」
僕は、祈る。
「母さんの病気が治りますように」
天使のようにあどけない笑顔で、葵はささやいた。
「うん」
「『うん』って……なに」
僕は、思わず苦笑する。
「そうと決まったら、頑張って、どんぐり100個集めないと! 湊のお願い事、ちゃんと叶えないといけないもんね!」
「うん、そうだね」
僕たちは、一生懸命、どんぐりをポケットに詰め込む。
願い事を叶えるために、その祈りを実現するために、母さんの病気を治すために……一生懸命、拾い続けて……叫び声が聞こえた。
「湊くんっ!!」
葵は顔を上げて、僕は顔を上げなかった。
知っていたから。
知っていたから、顔を下に背けた。
「湊くんっ!! 来てっ!!」
しゃがんでいた僕は、ナースの井上さんに手を引っ張られる。力なく座り込んでいた僕は、物凄い力で引っ張り上げられ、だらんと片腕が持ち上がる。
「井上さん……どうしたの? 湊、痛そうだよ?」
「白亜さんがっ!!」
井上さんは、今にも泣き出しそうな顔でささやく。
「湊くんのお母さんが……」
「行くよ」
僕は、手を振りほどいて立ち上がる。
ぽかんとした表情の葵が、ぼんやりと起立していた。彼女の足元には、前掛けに溜めていたどんぐりが散らばっている。
「じゃあね、葵」
僕は、井上さんに引っ張られ、葵を残して病院へと向かった。
真っ白な病室では、もう、なにもかもが終わっていた。
医師と看護師に取り囲まれた母は、いつもよりも、ずっと小さくなったように視えた。枯れ枝みたいな腕からは、大量のチューブが伸びている。眦には涙が溜まっていて、こちらを見るなり、それはゆっくりと流れ始めた。
「……湊」
バラバラと、音が聞こえた。
力を失った僕の両手から、願い事が零れ落ちていた。
「ごめんね……お母さん、もう限界みたい……」
「…………」
「湊……お母さんがいなくても、もう大丈夫よね……ひとりで、宿題、出来るもんね……葵ちゃん家のお父さんとお母さんが、後の面倒は視てくれるって……施設に入らないように、ちゃんと……湊……おいで……」
井上さんが、口を押さえて、身体を震わせながら退室する。
気がつけば、医師たちも全員消えていた。終わりを告げるかのように、世界は夕暮れを迎えて、母の全身は紅色に染まっている。
窓の外では、力なく、セミが鳴いていた。
「抱きしめて……」
寝たきりの母に寄り添って、僕は、彼女の細い身体を抱き締める。あたたかかった葵とは対象的に、母の全身は冷たくて……婆さんの告別式を思い出した。
傍によった耳元、繰り返される謝罪が、僕の耳に響いた。
「ごめんね、湊……ごめんね……もっと、ちゃんとしたお母さんのところに生まれたかったよね……ごめんね……ごめんね……」
僕は、強く、お母さんを抱き締める。
違うよ、と言う代わりに。静かに、涙を流しながら。
「これからは、好きに生きて……お母さんに縛られることなく自由に……忘れて……お母さんのことは忘れて……新しいお父さんとお母さんのところで幸せに……み、湊が大人になったらお母さん……」
泣きながら、母は笑う。
「天国から、湊の立派な姿を見に行くから……だから、どうやっても良い」
愛おしそうに、母は、僕の頬を撫でる。
「誰かの笑顔のために生きて」
僕は頷く。
「でも、なによりも」
嗚咽を漏らしながら、僕は頷く。
「自分の笑顔のために生きなさい」
笑って――力なく、母の腕がベッドの上に落ちた。
「……お母さん?」
僕は、お母さんを揺さぶる。
「お母さん?」
汗だくになった葵が、息を切らして、廊下に立っていた。
彼女は、必死に、母を揺さぶり続ける僕を見つめて……両手に握り締めたどんぐりを、ぽとぽとと落とした。
「お母さん、起きてよ……お母さん……お母さん、ねぇ……お母さん……新しいゲーム、ぼく、練習したんだよ……お母さん、ゲームヘタクソだから……ぼくが教えてあげる……だから、起きてよ……お母さん……おかぁさあん……」
ぷつりと、セミの声が途絶えた。
真っ赤に染まった病室で。
母の死体を揺さぶる僕の声が、セミの代わりに鳴り続けていた。