果たされない約束
『わたし、湊くんのお母さんに会いたい』
シャルは、笑顔で、そう言った。
夢の中での邂逅。
共有夢……この当時、僕とシャルは繋がっていて、夢の中で友達になった。
貧乏で薄汚くて、放課後は病院通い。
そんな10歳の僕と友達になってくれたのは、葵を除けば彼女以外にいなかった。だから、彼女は、神様が授けてくれた親友のように思えた。
――いつか会って、いっしょに遊ぼうね!
かつて、シャルはそう言っていた。
僕は知っている。
その約束が果たされることはない。
彼女は、近い将来、浮浪者のような男に犯されて、雨と泥にまみれて死ぬ。そこには、一片の慈悲もない。神様も奇跡も、存在しないのだと、言外に教えてくれていた。
『……どうやって?』
もう、そんな時期が来たのだ。
僕の記憶が正しければ、シャルと母さんが会った後、6日を経て母は死ぬ。今日は月曜日だから、神は、母に最後の休息日を与えてくれなかった。
『もしかして、なんだけどね! わたし、湊くんの身体を借りれるんじゃないかなって! だって、ほら、わたしたちってそっくりでしょ!』
『……そうだね』
『湊くん?』
学校の屋上で、金網を乗り越えて、縁にふたりで腰掛ける。
風でなびいた髪を押さえて、シャルは、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。その顔を視られなくて、僕はそっぽを向く。
『どうしたの……?
なに、その、かなしそーなお顔……湊くんは、笑顔が素敵なんだから』
シャルは、満面の笑みを浮かべる。
『笑おうよ』
――笑おうよ
笑顔がダブって、僕は、顔を歪める。
『ごめん……』
涙を隠すために、僕は俯いてから、シャルの両肩を掴んだ。
『ごめん……すくえなくて……ぼくは……ぼくは、なにもできなかった……行こうと思えば行けたんだ……君に会いに行けたんだよ……でも、ぼくは……おかあさんがしんで……きみのことをわすれた……なにも……できなかった……』
『湊くん?』
僕は、泣かないように歯を食いしばる。
何度も、何度も、何度も。
自分に言い聞かせるように食いしばって、必死になって顔を上げる。
『今の僕なら、君を救えるかもしれない……』
『え?』
『でも、僕は、君を救わない』
僕は、両手で顔を覆って首を振った。
『君には君の……僕には僕の人生がある……それを否定することは出来ない……僕ひとりの意思で……君の人生を変えるわけにはいかない……僕にとって、都合の良い世界を認めるわけにはいかない……そこに、君の意思はないから……』
『…………』
『ちくしょう……』
ぼろぼろと、涙が零れ落ちる。
指の隙間から、とめどなく、涙が流れ落ちる。
『ぼくは……』
両手で、己の顔を握り込む。
『よわい……』
『湊くん』
シャルは、ゆっくりと、僕を胸に抱き込んだ。
心音が聞こえる。
それは、僕の鼓膜を叩いて、脳天を打ちのめし、世界中に響き渡った。
その柔らかな音こそが――
『大丈夫だよ、湊くん』
彼女が生きている証左だった。
『湊くんのお母さん、きっと治るから……だいじょうぶ……わたし、毎日、お祈りしてあげる……安心して……ほら、こう視えても、わたし、占いとか好きだし……あと……んーと……だいじょぶ……』
違う、違うんだ。
そう言おうとしたのに、口から出てきたのは嗚咽だった。眼の前で生きる彼女にぶつけたのは、情けない慟哭だった。
『ねむって、湊くん……大丈夫……』
いつの間にか、とろんとした眠気が訪れる。
『わたしは、ずっと……湊くんの味方だよ……』
眠りに落ちて――いつの間にか、僕は、母さんの病室にいた。
いや、コレは、僕じゃない。シャルだ。
シャルは、僕の身体を借りて、僕として母さんの前に立っていた。
頬がげっそりと痩せこけて、あたかも、骸骨のようになった母は、僕の姿を見るなり微笑みを浮かべて――目を見張った。
「……どなた?」
「わたし、あの、シャルロット・クロフォードって言います。あの、湊くんの友達で」
「あらら」
ゆっくりと、身体を起こして、母は苦笑する。
「湊のガールフレンド?」
僕の姿をしたシャルは、顔を真っ赤にして黙り込む。
その様子を視て、母は、嬉しそうに微笑んだ。
「あの子も隅に置けないわね……葵ちゃん以外にも……そう、ガールフレンドかぁ……お母さんにも、そういう時期、あったなぁ……好きな男の子がいて……大好きな人と出会って……湊が生まれてきてくれた……」
木の枝みたいになった腕で、母は、必死に顔を擦った。その度に、涙が腕の表面に付着して、布団の上に零れる。
「わ、私が……私が死んだら……あ、あの子は、どうすればいいの……ひ、ひとりぼっちで……お、親もいないのに……い、いやだ……し、死にたくない……あの子を置いて……わ、私……死ねない……しねないのに……」
その力ない動作に合わせて、大粒の涙が、空気中に飛翔する。
でも、奇跡なんて起きない。
「湊は……みなとは……どうなるの……どうなるのよぉ……なんで……なんで、こんなひどいこと……あの子、ばっかりぃ……なんで……なんでぇ……!」
誰かが泣いたところで、哀れんだ神が、病を治してくれるなんてことはない。
母は死ぬ。僕は、なにも出来ない。
でも、シャルは、笑顔を浮かべて――
「大丈夫ですよ!」
そう言った。
「…………」
泣き止んだ母に、シャルは微笑む。
「わたしが」
そして、彼女は。
「わたしが、湊くんを幸せにしますから」
そう言った。
――あなたのお母さんとの約束、守れなくて……ごめんなさい
僕は、思い出す。
そうだ、コレこそが。
「絶対に、わたしが、湊くんを笑顔にしますから」
彼女が誓った――約束だ。
そうして、僕は、ようやく理解する。
――笑おうよ
なぜ、彼女がそう言っていたのか。
――笑おうよ、ミナトくん!
繰り返し、そう言っていたのか。
――自分の笑顔のために生きようよ!
理解する。
「……ありがとう」
母は、泣きながら、何度も頷いた。
「よろしくね……湊のことをおねがい……あの子、寂しがりやだから……一緒にいてあげて……ずっと、傍にいてあげて……」
「はいっ!」
シャルは、満面の笑みで言った。
「ずっと、傍にいます!」
――ずっと、ミナトくんの傍にいる
『ぁあ……』
シャルの背後で、僕は跪き、許しを乞うように慟哭を上げる。
『ぁあああああああ……ぁあああああああああ……ぁああああああああああああああああああああああああああああっ!!』
僕は知っている。
『ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!』
その約束が果たされることはない。