死は、手を引く
人の死は、軽くて重い。
それは、重力を思わせる。普段、日常を過ごしている時には感じない。でも、意識した瞬間、ふと、思い返せば感じられる。
毎日のように、どこかの誰かさんは死んでいる。
世界では、1秒ごとに1.8人が死ぬ。
でも、僕らが、その死を感じることはない。世界は繋がっていない。誰かは誰かで、僕ではないし、僕に関する誰かでもない。友人や家族や自分が死なない限り、そこには、どっしりと生が寝そべっている。
婆さんは……小糸詩は、死んだ。
母は調子を崩して、告別式には僕が出た。
隣で、葵は、自分の母親に抱き着いて泣いていた。両腕の中であやされている彼女は、あまりにもか弱くて小さかった。駄菓子屋のベンチに座る僕の足元で、溶けたアイスに群がったアリみたいに弱々しく感じた。
「…………」
棺の中の婆さんは、死化粧に彩られて美しく視えた。
当時の僕は、その死の意味がわからずに、何度もその頬に触れていた。あまりにも冷たくて気持ちよくて、何度も何度も、告別式が始まるまでの間、婆さんの孫に混じってその冷え切ったほっぺたを触っていた。
「……婆さん」
――明日が来るとは思ったらいかんよ
「あんた、どうやって、そこまで強くなった」
婆さんは、人に好かれていた。
杖を付いて歩くような爺さんが、この世の終わりみたいな顔で泣いていた。お子さん夫婦は、堰を切ったように号泣している。慟哭に咽び泣く親類たちは、数分前までは平然としていたのに、誰かがスタートボタンを押したみたいだった。
僕は、婆さんが灰になったのを確認して外に出た。
「ぐっ……ぉお……ぉおお……!」
外では、ナースの井上さんが、声を押し殺して泣いていた。
「ぉお……ぉおおっ……ぉおおお……!」
真っ黒な喪服を着て、大樹に寄りかかり、泣き続ける彼女の背中を今でも憶えている。いつも、気丈でサバサバとしていて、この人が泣くようなことあるんだろうかと、そう思っていた人が、獣のように身体を震わせて泣いていた。
「…………」
子供の頃の僕は、彼女になにも声をかけられなかった。
「…………」
そして、今も、僕は彼女にかける言葉を知らない。
「あ、おかえり」
家に帰ると、子供用のエプロンを着た先輩が、お立ち台の上で料理をしていた。カセットコンロに載せた鍋が、沸騰して、慌てて彼女は火を止める。
エプロンを外しながら、彼女は、微笑を浮かべてこちらに向かってくる。
「おかえり、湊」
僕は、その場に跪いて、彼女のお腹に抱き着いた。
「……つかれた」
驚いたように目を見張った彼女は、僕の顔を覗き込んで、こわごわと頭を撫でてくれる。
「……あんた、この格好の女の子に母性を感じるのはヤバいわよ」
「……今、僕は、ショタなんだから許して欲しい」
「どうしたの?」
前髪を人差し指で掻き分けられて、僕は静かに目を閉じる。
「友達が死んだよ」
「……そう」
「僕は、おばあちゃんがいないからね。祖母みたいに思ってた。でも、子供の頃も今も、一滴の涙も出なかった」
「そう」
「あと数週間で、母さんが死ぬよ」
僕の頭を撫でていた手が止まる。顔を上げる。目が合う。先輩は、ただ、僕を見つめていて、そこにはなんの感情も浮かんでいなかった。
「ぼくは、まちがってるの?」
「…………」
「ねぇ、ぼく、まちがってる? ぼくのおかあさん、いきてたらだめ? まちがってる? ね? まちがってる?」
「…………」
「たすけちゃ、だめ? ぼく、おかあさんといっしょにいたい……だめ? ぼく、ちゃんと、いいこになるよ。いうこと、ちゃんときく。げーむも、いちにち、いちじかんしかしないよ。ね? だめ?」
魂が器に引っ張られる。
一瞬、10歳の子供に戻っていた僕は、我を取り戻して苦笑する。
「イカれそうだ……なにが虚構で、なにが現実なんだ……最近、自分が、10歳の子供のように感じるよ……朝、起きて、鏡に映る自分を見つめる度に……菓子パンの味が……ざらついた砂糖の甘みが……ねぇ……どこに現実があるの……ぼくは、かわいそうなこどもじゃない……おかあさんは、かわいそうなひとじゃない……」
救いを求めるかのように、僕は、先輩を見上げる。
「ねぇ、婆さんは、母さんが生きていることは間違ってるって……婆さんを生き返らせちゃいけないって……なんで……ねぇ、なんで……あんな現実、嫌だよ……ぼくは、ただ、皆で一緒に夏休みを過ごしたいだけなの……わかるでしょ……いいでしょ……ね……いいでしょ……たすけていいでしょ……?」
俯いた先輩は、口元を震わせながら、僕に何かを言おうとして……必死に、食いしばって、ひきつった笑顔で言った。
「湊、あたしは、あなたたちが羨ましい」
綺麗な笑顔で、彼女は言った。
「ミナトは、小さい頃に読んだ絵本の続きを知ってる?」
――ミナトは、小さい頃に読んだ絵本の続きを知ってる?
たぶん、それは、二度目の問いかけだった。
「……知らない」
「そうよ。絵本の続きは、絵本の住人にしかわからない。子供の頃に読んだ絵本のことなんて、誰しもが忘れ去ってしまう。絵本の住人はね、もう二度と、読んでくれた子供たちと会えることはないのよ」
「先輩?」
「湊、あなたは、いつか忘れる。
あたしのことも、このゲームのことも、あなたの母親のことも……いずれ、もっと大切な瞬間を迎えた時、それは美しい思い出になる。かけがえのない記憶として、儚い過去の欠片として、魂に刻まれた一瞬として。
それは、あなたの」
先輩は、僕の胸の中心を人差し指で衝く。
「人生になる」
「いやだよ……そんなの……いやだ……」
「それがっ!!」
先輩は、泣きながら、僕の両腕を掴む。
「生きるってことなのよ、湊!! 止まっちゃダメなの!! あんたは、進み続けるしかないの!! それが、あたしには出来なくても、あんたには出来ることなの!! 生きるのよ、湊!! あなたの人生を!! この世界を!! くだらないクソゲーを!! 誰かが創り上げたこのクソみたいな舞台で!!」
揺さぶりながら、先輩は、涙の溜まった目で僕を見つめる。
「他の人たちと生きるのよ……! あんた、ゲーマーでしょ……! どんなクソゲーでも、ちゃんと、最後までプレイしなさいよ……! 楽しまなきゃ、ゲームじゃないのよ……! あんたの……あんたのその配信を……視ている人だってちゃんといるのよ……!」
僕は、先輩の目の奥に潜んだ光を見つめる。
ゆらゆらと。
そう、ゆらゆらと、灯火のように揺れる光を。
「大人気Vtuberになるんでしょ……?」
――大人気Vtuberになるんでしょ
僕は――ただ、頷いた。