『ただ』を祈る
「って、アレ?」
血溜まりに沈んでいた先輩が、忽然と消えていた。
振り返ると、所在なさげに先輩が突っ立っている。
その申し訳無さそうな顔を視て、僕は、『先輩はゲーム内で復活したわけではない』ことを理解する。たぶん、もっと特殊な例だ。
もし、プレイヤーがゲーム内で復活可能であったならば、どこかの誰かが死んだ時に、プレイヤー同士で情報が共有されている。
前提が崩れることはない。
今、このゲームで死ねば、復活することはないのだ。
にも関わらず、先輩が復活したということは……答えは、もう出ている気がした。思えば、今まで、十分過ぎる程に情報は出ていたのだ。
先輩は、きっと、僕が気づいたと知ったら気にするだろう。
「え!? 先輩、蘇生アイテム持ってたの!?」
だから、僕は、知らないフリをすることにした。
「え……あ、あ~、ま、まぁね。レアアイテムだけどね。ほら、あたしって、公式Vtuberだし? ツテもあるから、こんな状況下で、手に入れちゃったのよね」
「しゅ、しゅごい……」
僕のわざとらしい演技、半信半疑の先輩は、それでも安堵の息を吐いた。
なにもなかったかのように、僕たちはまた歩き始める。また、先輩が車に跳ねられたら困るので、足早に自宅へと戻ることにした。
寂しい夜道を歩いて、錆びついた外階段を上り、アパートの古びた扉を開ける。二人暮らしにしては、狭すぎる6畳間、備え付けのキッチンシンクには、使われることのない皿が放り込まれている。
「…………」
改めて、僕の住まいを視て、先輩は絶句していた。
僕は、折りたたみ式のテーブルを広げて、さっきまで寝ていた布団に座る。テレビもなにもない部屋の中は、良く言えばシンプルに片付いていて、悪く言えば財産と呼ばれる類のものがひとつも存在していなかった。
「先輩、菓子パン、食べる?」
僕は、押し入れの中から、賞味期限の切れている菓子パンを取り出す。
「ここから、徒歩5分のコンビニのバイトさん、ベトナム人の苦学生なんだけど、たまに廃棄の弁当とか菓子パンくれるんだよね。今の時代、それバレたらヤバいのに『武士の情け』とか言って毎回くれんの。
めちゃくちゃ面白くてさ。将来、本気で、サムライになるんだって」
「……あんた」
先輩の目は、カロリーだけは豊富に摂取出来る菓子パンを捉える。
「今、10歳でしょ?」
「うん」
「当時……10歳の時、いつも、こんな生活してたの?」
「まぁ、治療費は無料じゃないからね。不倫してトンズラこいた父親は、慰謝料や教育費なんて出す気ないみたいだし。とっとと、内容証明出せば良かったんだけど、父親の不倫相手が半グレと仲良しでね。
半ば脅される形で、揉み消されちゃった」
突っ立ったまま、先輩は、口を開ける。
そして、ゆっくりと閉じた。
「一時期、母さんは、毎日のように言ってたよ」
僕は、幾度も、繰り返し聞かされたセリフを唱える。
「湊、この世界はね、正しい人間が正しく救われるようには作られていないの」
苦笑してから、僕は、菓子パンの包みを開ける。
「あの歳になるまで、真面目に生きてきた人だからね。長年、連れ添ってきた旦那には、不倫されて捨てられるわ、死ぬ気で働いたら倒れて余命宣告されるわ、たったひとりの息子はまだ10歳で頼れる身内はいないわ。
そりゃあ」
僕は、自分の髪の毛を掻き回しながら床を見つめる。
「そんなセリフも吐きたくなる」
先輩は、再度、口を開けて――
「なにも言わなくていい」
なにか、言いかけた先輩を遮る。
「この時、僕は、僕の意思でココに居た。下手な援助を受けたら、この実態がバレて、母さんから引き離されるかもしれない。だから、賞味期限切れの菓子パンで、命を繋いでいくしかなかった。
母さんは、僕が、葵の家で厄介になってると思ってるけど……さすがに、そこまで迷惑をかけるのは、ね」
実際のところは、僕が葵の両親に嫌われたくなかったというのが本音だ。
あの優しいふたりにまで、拒絶されるようなことになったら、僕はどこに居場所を求めれば良いのかわからなくなる。僕がVtuberを始めたのも、たぶん、自身を認めてくれる誰かを欲したからだろう。
――誰かに視て欲しいんだろ
だからこそ。
――救って欲しいんだろ
レアの言葉が、胸に突き刺さって。
――自分はココに居ると
激しく、哀しく、苦しく――反発したんだ。
「いつも、ひとりで家にいたの?」
「まぁね」
砂糖がこびりついた皮をかじり、クリームたっぷりの中身を吸い出す。あまりにも甘すぎて、しつこすぎる味わいが、懐かしくて微笑んでしまった。
「あんまり、ひとりで、外に出たりすると大家にバレるから。このアパート、父親の名義で借りっぱなしだからね。うちの親父の唯一の良心は、口座からココの家賃を引き出し続けても、止めようとしないってことかな」
「……正直」
先輩は、ささやいた。
「その歳で、落ち着きすぎてるとは思ってた。大抵のことには動じないし。道徳観がズレてるというか。その歳なら、普通、まだ少年漫画の主人公に憧れてるものでしょ。なのに、積極的に、誰かを救おうとしない。
むしろ、誰かを救おうとするのを恐れてた」
「失敗し続けてきたからね」
菓子パンを食べ終えて、僕は、包装紙を丸めてゴミ箱に放る。
「僕が救おうとした人間は、全員、不幸になってきたから」
ゴミ箱の端に当たる。
嘲笑うかのように、包装紙は床に落ちて、パン屑を撒き散らした。
「もう一度」
僕は、その汚らしい末路を見つめて微笑む。
「もう一度、頑張ってみようと思ったんだ……シャルとレアを……あの姉妹を救えるかもしれないなって……でも、結局、僕は……目の前の現実より、都合の良い虚構を選ぼうとした……先輩が止めてくれなかったら……きっと、僕は、あのまま幸せになってた……」
「ミナト」
「ただ、傍に居て欲しい」
僕は、包装紙についた『\124』の値札を見つめる。
「ただ、僕を」
見慣れたその印字を見つめ――
「視ていて欲しい」
ありふれた願いを唱えた。