白、死、静
つめたくて、しろい。
どこまでも、リノリウムの床が続いている。
真っ白な照明の下。
デパートに並べられているマネキンみたいな無機質さで、病衣を着た老人たちが整列していた。中年の男性と女性は、どこか申し訳無さそうに、廊下の端の方で溜まってぼーっとしている。
自販機の音が、廊下の最奥まで聞こえた。
不気味な駆動音。
『病院ではお静かに』の不文律を守って、静寂が場を支配している。有名メーカーのロゴ、並んだ清涼飲料水たちは、内臓を抜かれて乾いたミイラを思わせた。彼らは、静かに、死顔を見せつける。
点滴をつけた老人が、手すりを掴んでぼーっとしていた。
無言で、その脇を通り抜ける。
僕と葵は、慣れきった足運びで、集中治療室と準集中治療管理室と一般病床を行ったり来たりする母の下を目指した。顔なじみの看護師たちは、こちらに微笑みを向けて、慌ただしくストレッチャーを運んでいく。
「…………」
改めて、僕は、小さな市立病院の内部を見つめる。
思い出したくもない臭いが、完璧な再現性をもって鼻孔をくすぐった。
つんと刺すような消毒薬、誰かの咳に混じったゴミとホコリ、蔓延しているアルコールと統制された清潔さ。
臭い。
たまらなく、臭くて、気色が悪い。
純白に象られた死の臭いだ。
――湊
僕に、こんなものを、嗅がせるな。
「湊? どうしたの?」
急に立ち止まった僕を振り返って、葵は不思議そうに小首を傾げる。
僕は、自動販売機内で眠る紙パックジュースを指して苦笑した。
「喉、乾いたよ」
「おばさん……待ってるよ?」
知ってる。
だから、行きたくないんだ。
どこかで、恥知らずなアラン・スミシーは、僕を俯瞰して嘲笑っている。その憎たらしい微笑に拳を叩きつける代わりに、バンッと音を立てて、オレンジジュースを購入した。
「葵は? 飲む?」
ポケットの中の財布には、小学生にしては多すぎる金額が入っていた。
万札を取り出して、葵に手渡そうとすると、彼女は怯えるように首を振った。
「……要らない」
「なら、ちょっと座ってな。隣。直ぐに飲み終わるから」
素直に、葵は、僕の隣に座った。
ひとつの丸テーブルとよっつの丸椅子、僕と葵は、向い合わせの二脚に腰掛けている。葵は、ふたつ穴の空いた分別管理されているゴミ箱を見つめて、ぶらぶらと足を揺らしながら僕の完飲を待っていた。
「湊は」
ぼそっと、葵はつぶやく。
「おばさんに逢いたくないの?」
たまに、子供は異様な鋭さを見せることがある。
――救う人間を選ぶんですか?
ソーニャちゃんの言葉を思い出して。
――この世界はね、正しい人間が正しく救われるようには作られていないの
次いで、あの女性の手向けを思い出した。
だから、僕は、顔を伏せて――テーブルの中央に、みかんが置かれる。
「来てたんか、湊ちゃん」
しわだらけの手。
勢いよく顔を上げると、眼鏡をかけた老婆の顔が目に入る。その懐かしいしわくちゃの笑顔は、あまりにも眩しくて、記憶を刺激された。
「よう、BBA」
「その歳になっても、まだ、骨董品の扱い方も知らんのかこのガキは。いい加減、敬意ってもんを知んなさいな」
腰を叩きながら、婆さんは、僕と葵の間に座った。
母さんと同室で、いつの間にか、僕と葵の“友人”になっていた82歳の老女は葵にまとわりつかれながら苦笑する。
「よーきたねぇ、あんた。そんな病院嫌いですみたいなお顔して。あたしも、耄碌してなぎゃーけど、あんたよりかはましだわ」
「行かないと行かないで怒るだろうが。お前は、僕の手で冥府に送ってやるって、指切りげんまんしただろ」
「その前に、あたしが、湊ちゃんを早死にさせるわい」
笑いながら、BBAはみかんの皮を剥いて、はんぶんこにしてから僕と葵に手渡した。いつも、こうやって、彼女は半分にしたみかんを自分では食べずに、僕と葵に食べさせる。
「では、行きましょか」
僕と葵が、みかんを食べ終わったのを見計らってBBAは腰を上げる。ぽんぽんと、自分の腰を叩いてからニヤリと笑った。
「いい加減、覚悟、決めんしゃい。
禍福は糾える縄の如し、ゆうてな、あんたさんがとやかく出来ることじゃあない」
「わーってるっての……他人の言葉で、偉ぶってんじゃねーよ」
「ほほほ、自分の言葉なんぞ持ってる人間なんておらんわ。若い頃は、己を持ってるゆうて勘違いしがちじゃがなぁ。いずれ、わかるわかる。他人の言葉くらいで、身の程は十分じゃて」
「その歳になって、オンリーワン社会に喧嘩売ってんじゃねーよ」
「あはは! 湊とばあ、いっつも喧嘩してる! おもしろーい!」
「葵ちゃん、あたしは、喧嘩しとらんよ。青二才相手に、ムキになってたら、劣化した脳血管が全部ブチ切れちまう」
腰を、ぽんぽん、叩かれる。
僕は、ため息を吐いて、覚悟を足に籠めて前に進んだ。