クラゲが人間になる時
僕が征薙先輩に出逢ったのは、4月の終わり頃。
桜も散り、真新しい制服に身を包んだ新入生もようやく学校に慣れてきた頃のことだった。
入学したての僕は広い校舎の中で、恥ずかしいことに迷子になってしまった。
宿題のプリントを渡すために担任を捜し回り、ようやく渡せた。そこまでは良かったのだが、あちこち走り回った結果、自分がどこにいるのか分からなくなってしまったのだ。
新入生にとってはダンジョンだと例えていた担任教師の言葉の意味が、実感として湧いてくる。
あとは教室に放置したままの鞄を持って帰るだけだというのに、何で迷子になんてなっているんだろう、僕。
またなー、という男子学生の叫び声が背後で聞こえてくる。
顔も名前も知らない彼のことが、今だけは心底羨ましかった。
先生と出会いはしないかと、キョロキョロ辺りを見回しながら歩く。残念ながら今は部活の時間帯で、先生はおろか生徒さえろくに歩いていなかった。すぐに出会えると期待していたのだが、どうやら望み薄のようだ。
もういっそ、窓から飛び降りてしまいたい。そんな考えすら浮かんできた時、背後からやたら元気な声が聞こえてきた。
「君、迷子になったのかな?」
振り返ると、入学式で見た以来の姿がそこにあった。
征薙律、高等部3年の先輩だ。活発な女生徒で、男女共に人気がある。
バレー部と写真部を掛け持ちしていて、体育祭の部活対抗リレーでは征薙先輩にアンカーをやって貰うのはどちらの部活か、対決して決めるらしいという話を耳に挟んだことがある。
その通り運動神経も良く、学園祭恒例のミスコンでは2冠達成。3つ目の栄光を手にし、伝説として語り継がれるのではと早くも噂されている。
そんな人が注目されない訳がなく、新入生にすら憧れの視線を向けられていた。その中に埋もれながら、僕は初めて入学式で征薙先輩を見た。
綺麗な人だった。
白い肌に、色素の薄いさらっとしたストレートの髪。目は大きくぱっちりとしていて二重瞼で、スレンダーな四肢にくびれた腰。僕的には、左目の泣きボクロが先輩の可愛さを引き立てていると思う。
まあそんな美人が、手を伸ばせば触れられる距離にいるんだ。緊張して全身ガクガクになっても無理もない。
自分に言い聞かせながら、何とか節目がちの視線を上げようとする。しかし視点はユラユラと定まらない。
「………………あ、はい」
辛うじて口から出たのは、ぶっきらぼうな返答だけだった。
恥ずかしさも相まって、心拍数がこれ以上ないほどに高まる。月並みな例えだが、心臓が口から飛び出しそうだ。
地球温暖化のせいか、まだ4月だというのに半袖でいなければ堪らないぐらい暑い陽射しが僕を襲い、汗が吹き出る。暑い。
汗が、心拍数が、不快だ。先輩の前から今すぐ逃亡を計りたい。コマンドで『にげる』を選択したい。誰でもいいからコントローラーで僕を操作してくれ、今すぐダッシュで逃亡させてくれ!
「そっかー、迷子か。うむ! ではこの私が、迷子くんに救いの手を差し伸べようではないか。ふぉっふぉっふぉ、そんなに固くなるでない、近う寄れ」
先輩は扇子のように扇ぐ仕草をしながら、大袈裟な口調で近付くことを強要している。
近う寄れって、なんか思ってたより随分とお茶目な人なんだな。もっと凛として近寄りがたい人みたいなイメージがあった。もちろん幻滅するようなポイントではなく、プラス1000ぐらいのでかい加算ポイントな訳だけど。
先輩は最初の位置から微動だにしない俺に、やや不満げのようだった。手招きしながら、小声で「かむかむ。かむかむ」と言っている。
何だよかむかむって、可愛すぎかよ。
既に理性が溶けたアイスのようにデローンとなっているのに、これ以上先輩に近付いたら僕の理性は完全に融解してしまいそうだ。けど一応常識は弁えているつむりだから、ゴリラばりの雄叫びを上げながら廊下を駆け抜け、自宅までの道を自前の足で爆走し、洗面器に冷水を張り顔を突っ込むという奇行を選択するだろう。
どっちにしろ、先輩をドン引きさせてしまう事には違いないだろうが。
先輩のかむかむ攻撃が止まないので、仕方なしに一歩近付いた。本当に一歩だけ。強張った足でロボットのように一歩移動した僕を、先輩はどこか楽しげに観察している。教室で飼われている観察用の生き物の気持ちが、今なら痛いほどよく分かる。
先輩は僕が一歩動いたことで満足したのか、更に一歩詰めた。正面を向いているので、お互いの顔がよく分かる。無意識に下を見ると、両頬をがっしりと掴まれて上に持ち上げられた。
「こらっ、これから取り調べを行うんだから、しっかり人の顔を見る!」
あれ、僕いつの間に迷子から犯人になったの? なんて疑問は、彼方へすっ飛んだ。先輩の顔が近くにある。ブラウンの瞳の中に僕が写っているのが、はっきりと見えるほどに。
「君、名前は?」
「ふぃ、ふぃやずふゅうわれす」
「……あ、ごめんごめん」
先輩は頬を掴んだままなのを思い出し、パッと手を離した。縮めた距離はそのまま、僕に手を差し伸べて促してくる。
「ソーリー。ワンモア!」
何で急に英語?
「み、宮津勇真です」
「オーケィ、ユーマ。ごほん……私はね、征薙律だよ」
知ってますよ。有名ですからね。
……とは流石に言えず、コクリと頷くことで了解の意を伝える。先輩はその反応で満足したのか、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔があまりに眩しくて、今もなお照り付ける太陽のようで。
汗が滲む暑さと速まる心臓の鼓動が、どこか遠くなる。
視界、ブラックアウト。
五感、全てシャットアウト。
意識の融解、開始。
嗚呼、僕はやっぱり情けない男だ。
高校に入っても僕は依然として、クラゲのまま。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
幼なじみの女の子に、「ユー君はクラゲに似てるね」と言われた。
幼稚園の卒園式の日、残酷なまでの無垢な笑顔で。
その時僕は「クラゲってなに?」と聞いた覚えがある。クラゲを知らない僕を、水の中でもがく蟻を眺めるような目付きで見る女の子。名前は忘れてしまった。その子に関しては余り良い記憶がなかったからきっと、埋葬したのだろう。僕の中の深いところに。
「クラゲはね、透明でフワフワしてる、水の生き物なの。こんな感じの」
そう言いながら、拾った小枝で地面に横向きの楕円を描き、その楕円の下に4本の短い棒を描き足す。
それを見た僕は『へんないきもの』だと思い、そしてその『へんないきもの』を自分に当て嵌めるこの子に軽く怒りを感じたが、僕は押し黙ったままだった。
相手が反論しようものなら、大声で泣きわめいて大人に媚びを売るのがこの子の手段だ。濡れ衣を着せられていわれのない事で怒られるぐらいなら、黙って流しておいた方がよっぽど良い。
僕が黙ったままだったのが不満だったのだろう。女の子は少しだけ唇を尖らせたが、すぐに良いことを思い付いたという風に笑みを浮かべた。
「クラゲにはね、顔が無いの。喜んでるのかも、怒ってるのかも泣いてるのかも分からない。ただユラユラ、フワフワ浮いてるだけ」
手に持っていた小枝を放り投げる。
振り返った女の子の視線とぶつかった。
「それって、ユー君にそっくりじゃない」
女の子はニヤついた、粘っこい笑みを浮かべていた。
昔のすでに細かいところが焼却された記憶なのでもっと普通の笑みだったかもしれないが、しかしこの時の僕には確かにこう見えていた。
つまり僕は、喜んでるのかも怒ってるのかも泣いてるのかも分からない、ただユラユラフワフワと他人に合わせているだけの、顔が無い、人間かも怪しい生き物だということか?
幼い頃だったからもっと単純な、そう……『怒り』に突き動かされて、僕はその子を両手で思いっきり突き飛ばした。尻餅をついて、泣いてしまえばいいと思ったから。
だが、その時の僕は幼すぎて力加減が出来なかった。
転ぶというには力が強すぎた。女の子は後方に身体をぶつけ、その弾みでそこに建っていたものに頭を強く打ち付けた。
そこには、女の子の背より大きな石碑が建っていた。
石碑は、粘っこい赤に濡れていた。
事故死という扱いだったが、当然のごとく僕は『犯罪者』扱いされ、家族と共に他県へと引っ越した。日本横断に近いぐらいの大掛かりな引っ越しだった。しかしそれも仕方ないだろう、殺人を犯してしまったのでは。
年月を経ても、その赤く濡れた生々しい記憶だけは消えない。葬っても葬っても、墓の下から蘇る。
うなされた夜は数知れず。この年まで長年精神科に通院し、ようやく安定したぐらいだ。
クラゲを知ってからというもの、一度も水族館には行っていない。クラゲを見ると、石碑の赤を思い出すから。
僕は、クラゲを知った日からそれ以上に、クラゲらしく生きている。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ヒヤリ、とした感触。
額に当てられたそれの冷たさに、僕は薄目を開けた。
五感はどうやら復活したらしい。喉が痛く、多少の声枯れがある。またうなされていたのか。
「あ、起きた」
軽やかなピアノの旋律のような声が耳元で聞こえて、僕は飛び起きた。
先輩が、何故か枕元にいた。幽霊ではない。丸椅子に座り、こちらを覗き込んでいる。
「ゆ、征薙先輩? どうしてここに……」
問い掛けると、先輩は小粋に片目をつぶり、立てた人差し指を左右に動かしてみせた。
「チッチッチッ、律とお呼びなさい。私とあなたは背負い背負われた仲なのであるから」
「なんですかそれ」
反射的に返してから、すぐに合点がいった。
先輩が僕を背負い、ここまで連れてきてくれたのか。
ようやく理解が追い付くと同時に、恥ずかしさが込み上げてくる。
僕が先輩を背負うならともかく、先輩に背負われてどうするんだよ。
先輩はそんなこと気にした様子もなく、僕の額に乗せられた濡れハンカチを取って鞄に仕舞っている。辺りを見渡すと、どうやら保健室にいるらしいことが理解出来た。入学してからまだ1度も利用したことがないので、どこにいるのか直ぐにはピンとこなかったのだ。
「先輩が僕を背負って、ここまで運んで来てくれたんですか?」
念のために聞いてみると、先輩は何でもないことのように「うん」と軽く頷く。こういうところが、先輩の人気の一端なんだろう。
「うなされてたから、嫌かなーと思ったんだけど。なんか尋常じゃない倒れ方したし、一応先生に診て貰おうと思って。軽い熱中症だってさ。調子はどう? 帰れそうになかったら、自宅に電話して迎えに来て貰った方がいいって先生言ってたけど……」
保健室にいるからなのか、先輩は僕の耳元で囁き声で話している。他に利用者がいないから別に気にしなくて良さそうなものなのに、先輩のこういう律儀なところも可愛らしい。
「調子は……良くなりました。先輩がついててくれたお陰です。もう自力で歩いても大丈夫そうなので、連絡はしなくていいです」
そう返すと、先輩は僕の顔を更に覗き込んできた。下手をすれば、唇が触れそうな距離。頬に添えられた両手のせいで逃れることも出来ず、僕は早鐘を打つ心臓と格闘しながら小さく息を呑んだ。
「…………せ、先輩。近い…………」
「ユーマ君さ」
「はいっ」
名前を呼ばれ、脊髄反射で返事をする。
征薙先輩は僕の瞳を見つめたまま、小さく呟いた。
「感情が顔に出ないんだね」
言われて、身体が大袈裟なぐらいに強張る。
嫌な汗が滲んでくる。
耳鳴りがする。
思考停止。赤色に濡れていく。
溺れてゆく錯覚。
冷たい。
ざいあくかん。
ぼくはわるくない。あいつがあんなこというから。
なにを?
わすれた。きおくはかそうしたから。
あのこのしろいかけらといっしょに。
いえいはえがおだった。
みんなないていた。ぼくはなかなかった。
おかあさんがぼくのほおをぶって、それからだきしめられて、
ぶたれた、頬に手を添えられて……
包まれた。暖かい手で。
涙が、出そうな程に。
「嫌なことが、あったんだね?」
先輩は真っ直ぐな言葉を僕にぶつける。傷をえぐるような疑問や、嫌な感情を含んでいないその言葉は、僕にとってとても新鮮で。
「…………はい」
小さく頷くと、先輩は歯を剥き出してニカッと笑った。
「そっか。教えてくれて、ありがとうね」
予想外の言葉に、僕は驚きで目を見張る。
この人は気にならないのか? 今まで色んな人に散々聞かれてきたのに。気持ち悪いと言われることもあったのに。
「何があったか、聞かないんですか?」
「んー」
先輩は僕の頬から手を離した。傍を離れたかと思うと、窓際に背を預ける。視線は窓の外に向けられていた。
「だって、言いたくないでしょ」
「…………それは、まあ。そうなんですが」
曖昧に答えていると、ふと先輩がこちらを向いた。
「それにさ。それも、君の一部でしょ?」
──……僕の一部。
『これ』も僕の一部だと、認めてくれるのか?
クラゲとして生きる僕を、人間だと認めてくれるというのか?
こんな『顔のない』僕を。
こんな『たゆたう』ばかりの僕を。
窓から吹く夕方の風が、先輩の長い髪を揺らす。
「さ、帰ろ!」
手を差し伸べられる。
その手は、姿は──赤色によく似た夕陽の『橙色』に染まっていて。
とても、とても……綺麗、だと思った。
END