鉄脚の終焉
1944年8月、日本軍は米中軍も撃退し、ビルマにおいて確固たる勢力圏を確保したが、翻って太平洋では6月にマリアナ沖海戦があり、空母戦力が大打撃を受け、サイパン島が陥落、8月にはテニアンやグアムといった島々も陥落していた。航空戦力を戦況不利な太平洋方面に引き抜かれ続けたビルマにおいてはこれ以上の攻勢は不可能となり守勢に転換するが、10月下旬のレイテ海戦以後、本土と南方の海上交通は完全に寸断されることとなり、英軍の圧力から戦線縮小を余儀なくされるようになる。
1945年に入ると欧州での勝利を確信した英国は海上からの反攻を開始し、1月にはラムリー島への上陸作戦が行われ、ビルマ内陸部の日本軍は徐々に撤退を余儀なくされていく。
2月にはラムリー島から撤退し、ビルマ南部も英空軍の攻撃圏に入ってしまう事になる。
そしてとうとう3月には英軍による本格反攻が開始され、3月中にはコヒマが奪還され、4月にはインパールも彼らの手に戻ることとなった。
この頃になると日本軍の輸送は完全に鉄脚に依存するようになるのだが、本土からの物資が届かなくなったことで整備に苦労するようになり、インパールが陥落する頃には1万騎と言われた輸送騎のうち、稼働しているのは半数程度といわれるような状況になっていた。そのため、輸送能力も大幅に下がり、撤退のたびに鉄脚も失う事になった。
5月に入るとせっかく死守したミッチーナーさえも放棄して撤退することが決まり、マンダレーまで後退することとなった。
6月にはマンダレー会戦が生起するが、この戦いにおいて相原大尉らの特騎中隊も奮戦し、多数の戦車や装甲車を撃破している。しかし、この戦いで多数の特騎中隊は戦死ないしは負傷し、稼働している戦闘騎は40騎程度という状態になってしまった。
それというのも、「車両、装甲車等2000両を含む」という情報が、いつの間にやら「車両、装甲車等200両」へと改変され伝えられたため、マンダレーへと迫る英軍の勢力を完全に見誤ったが為だと言われている。
第15軍はこれまで慎重な作戦指導で定評があったが、撤退続きとなってからはどこかタガが外れたようにミスや齟齬を量産し、「車両200両」の様な希望的観測を現実に優先させる状態を生み出してしまっていた。
確かに仕方ない面もある。1945年に入ってビルマに展開する第五飛行師団の保有機は100機を切り、各方面から飛来する英軍機はその10倍を超えると見積もられていた。さらに、フィリピン陥落や沖縄の陥落などの報が届くに至って、完全に正気を失っていた。
マンダレー陥落以後、特にそのような現実無視の作戦が横行するようになる。司令部においては現実よりも楽観主義が支配的となり、意思決定は参謀や司令官の願望によって行われるに至っていた。
そんな中でも生き残った40騎を指揮する相原大尉は各所で英軍の進撃を食い止め、徐々に勢力を減らしながらもメイクテーラへの撤退戦で英軍漸減の成果を上げていた。
しかし、司令部は現状を認識することなく、メイクテーラにおける決戦を意図して部隊を集中しようとしており、せっかく成功しかけていた遅滞、漸減作戦は中途半端な形で終止符を打つことになってしまった。
すでに本土においては大半の都市が焼け野原となり、鉄脚を製造していた白石鉄工所も機能の大半を失っていた7月、メイクテーラ会戦が生起する。
ここに至って、これまで撃破してきた戦闘騎を調査し、ゲリラ的に襲撃してくる戦闘騎の特性とその薄殻榴弾の威力を分析していた英軍は司令部の誘いに乗って安易な攻勢をかけることなく、ジワジワ慎重に進撃を続けていた。
この時、敵が戦闘騎による奇襲を警戒し必要以上に散開している事実を正確に把握、分析できていたならば戦闘の様相は大きく違っただろうと言われている。
会戦が生起した段階ではいまだ集結出来ていない部隊が点在し、それら部隊による英軍への打撃も相応に効果を上げていた。
空からの攻撃こそ激しかったが、夜間の襲撃を恐れて攻撃の集中が徹底できていない英軍地上部隊の方は各所に隙があった。
それはそれですでに日本軍には冷静な指揮統率力がない事を読んでの事ではあったが、多少なりとも頭を冷やせていたら、メイクテーラ防衛は終戦のその日まで可能であったと言われている。
しかし、外から攻撃を加える部隊とまるで連絡も取れず、取ろうともせずに攻勢命令ばかり乱発する司令部の誤りから、8月に入ることなく陥落してしまう。
相原はとうとう直卒12騎を残してほぼ壊滅してしまった戦闘騎を率いてラングーンへの撤退戦を戦っている最中に停戦命令を受けることとなった。
実はこの時、ほとんど補給の目途は無く、自身の騎は残弾が8発であったという。
ビルマ戦線が一時の栄華から急転直下惨劇へと転回していたころ、爆撃で焼け野原となった日本にいた白石は既に病魔に襲われ余命いくばくも残されていなかった。
それでも鉄脚の制御回路は他者に任せることなく自らくみ上げる日々を続け、さらに寿命を縮めるような仕事ぶりだったという。
8月15日、昼の玉音放送を聞静かに聞いた白石は、その足で会社へと向かい、自らの研究室と制御回路製造ラインを壊し、火をかけている。
「軍も同じことをやっている」
そう言われて社員は誰も反論できず、ただ研究室が焼け落ちるのを見ていた。
白石自身はそれですべてをやり遂げたように、マッカーサーが厚木に降り立つのを見ることなくこの世を去る。享年58であった。
彼は徹底して制御回路については秘匿しており、終戦後、接収にやって来た連合軍による聴取を受けた社員は誰一人として、制御回路の製法を知らなかったという。再現しようにも資料は全て灰であり、製造ラインも完全に破壊され、組み立てようにも再現しようにも、何がどうなっていたのか分からなくなっていた。
その後、多くの研究者が白石回路を分析し、成分や構造を調べているが、今に至るも完全な製法を突き止めるには至っていない。今のところ、製法を再現できたとしても集積回路ほどの演算速度を叩き出すことは難しいとされているため、この30年ほどはほとんど研究がされてもいない。
ただ、時折オカルト誌などに出てくる話の中には、「俺の回路は100年は構造を再現できない。本当は簡単な話だが、『コロンブスの卵』って奴だ」という白石の言葉なるモノが出てくる。こうした語録はいくつも存在してるのだが、その信憑性もさることながら、仮に本人の言葉であっても、まるで製法のヒントが出て来ていない。
彼の言った100年がいつの時点か分からないが、早ければあと10年前後、遅くとも30年後には白石回路の謎が解けるのかもしれない。




