表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/7

鉄脚の誕生

 輸送騎や戦闘騎が太平洋戦争の開戦と共にどこかから湧いてきたわけではない。


 オカルト誌や架空戦記小説ではある日突然、白石国倫が輸送騎を作り出したように描かれるのだが、実際には完成まで多大な時間を要している。


 白石が歩行型機械の着想を得たのがいつなのかははっきりとはしないが、少年時代には二足歩行や四足歩行の機械、今でいうロボットの模型を作っていたと言われている。それらは鎧兜の様な角が生え、剣を手にしたと言われることが多く、まるで一世を風靡した機動兵器アニメのロボのような印象を受ける。


 しかし、その模型は現存しておらず、本当にアニメのロボの様な形状だったかどうかは今となっては知ることが出来ない。


 後に白石が知人に語った話によると、当時は鉄道以外は人力車や馬車しか見る事が無く、本や話に出てくる自動車というモノがどんなものか分からなかったそうで、人力車を押す人や馬車の馬をそのまま機械に置き換えたモノを想像していたと語ったようである。そのため、「だったら人型機械に槍や剣を持たせたり、馬型機械に兵隊がまたがる騎兵があってもおかしくない」と考えたという。


 現代の目で見れば、そうした鎧武者や機械馬がアニメのロボと見えなくもないだろう。そもそも、アニメの戦闘ロボのイメージが武者や騎士なのだから、あながち間違ってはいないとも言えるが。


 そのような子供じみた発想は我々も持っていなかっただろうか。しかし、歳を重ねるごとに知識が増え、それが常識となる事で、子供の頃の発想は思い出へと移り変わることになる。白石もそうであった様で、陸軍で技術研究に携わる頃には、少年時代のロボはただの思い出となっていたらしい。

 彼が第一次世界大戦頃に軍において研究していたのは、歩行型機械などでは無く、電子機器、主に無線機や電動機関係であった。


 ところが、1916年に戦車が戦場に登場すると、白石は急に昔の思い出を思い出したように周囲に語ったという。


 そして、

「タンクというのは無限軌道で荒れ地を進むことが出来る。塹壕を超え、坂を登り、トーチカを蹂躙する。しかし、無限軌道は思ったほど自由に動き回ることは出来ない。騎兵の方がよほど小回りが利く。タンクを作るより機械の馬を作って、それに人が乗って馬に大砲担がせた方がより使い勝手が良いのではないのか?」

 などという話を始めていたらしい。


 実際、当時の戦車と言えば、マーク1は時速6km、後の戦車の基本形となったルノーFTでさえ時速20㎞程度であった。その程度ならば馬でも出せない事は無い。当時の性能の戦車を機械の馬で代替することは不可能とは言えなかっただろう。本当に作れるのであれば。


 しかし、誰も機械の馬が作れるとは思っていなかった。


 そんな中で白石が作ったのは、全長30cm程度のぜんまい式の模型だった。今現在、獣型ロボのおもちゃで存在している四足歩行型に近いものだった。この程度のモノであれば、何ら難しくはない。ただ動かすだけなら、これをさらに大型化すれば、確かに歩くだけなら可能であっただろう。誰もがそう考えた。


 しかし、白石の考えはまるで違っていた。少なくとも馬が歩く程度には自然な動きをさせようと考えていた。

 そのような動きをさせるには、単に機械的な装置だけでは成り立たない。しっかりした制御装置やバランスをとる機構が必要になってくる。


 当時、白石が作った模型はぜんまいと歯車によって四本の足が規則的に動く構造になっており、単に平地を歩かせるだけならそのまま大型化すれば良かった。

 しかし、不整地を歩かせる場合、脚を上げる角度などがすべてまちまちになるので、規則的に脚を動かすだけでは歩行が困難になってしまう。そのため、歯車で動かそうとすると非常に複雑な機構を内蔵しなければならず、当然ながらそんな構造では実現が難しかった。

 

 そのため、動物の筋肉や健の代わりに油圧シリンダーや電動機を用いた構造によって、脚を一本ずつ独立して動かすことを考えていた。

 しかし、陸軍は彼の考えに賛同してはいなかった。


 当時は欧州に現れた新兵器の情報収集や現物の取得に追われ、まるで現実的とは言えない四足歩行の玩具になど構う余裕はなかった。

 そうした事情もあって、白石は戦後ほどなくして陸軍を辞め、歩行機械開発を目的にした会社を設立している。


 ただ、歩行機械に理解や賛同が集まるはずもなく、陸軍時代の伝手を頼って電気メーカーの顧問という形で支援を受ける形になった。

 こうして本格的な開発を始めるのだが、なかなか思うようにはいかなかった。


 細い脚では強度を保つことが出来ず、かといって太くすれば徒に重量を増やすことになり、駆動の負担となった。そして、関節構造にも問題が起きていた。


 当時の一般的な金属を用いて歩行機械の脚を作ることに限界を感じた白石は独自の素材を開発するため、鉄鋼メーカーにも声をかけることになる。

 一介の元技官程度が訪ねて来たところで普通なら相手にしないのだが、どういう訳か、白石を受け入れ、あまつさえその素材開発を積極的に請け負ったというのだからよく分からない。

 そののち、このメーカーが軍を差し置いて日本初の溶接用高張力鋼を開発した事を考えれば、そこに白石の関与があったと見るべきなのだろう。しかし、彼は電気系技術の開発者であったはずだが。


 そのような経緯を経て、歩行機械、白石が「鉄脚」と命名した実験騎が完成したのは着想から10年目の1927年の事だった。


 しかし、この時完成した鉄脚は極めて操縦が難しいもので、操縦には二名の操作員が必要で、しかも、二人の呼吸が合わなければまともに歩行することも難しかった。

 それというのも、脚を動かすために馬の筋肉を模した油圧シリンダーやその動きを補完する電動機が多数取り付けられ、前脚の操作にレバーが2本、ペダルが2個、各種スイッチは10を超えて存在していた。後ろ脚にも同様のモノがあり、それぞれを一人ずつの操作員が操作してはじめて動かすことが出来たのだが、レバーやペダルのタイミングを二人で合わさなければ、うまく四本の脚を動かすことが出来ない。


 当然、こんな状態では更なる発展など望めないのは誰が見ても明らかだった。もちろん、白石もそのことには気が付いていたらしく、実験1号騎はあくまで構想した機構が実現可能かどうかの実験騎という扱いだったという。

 そもそも、大きさが馬程度しかない機械に二人も乗り込むと荷物を載せるような余裕はない。荷物や武器を積載する目的で考えた機械に操縦士が乗るだけで限界というのでは本末転倒だった。


 そのため、操作系統の簡略化が早急に必要となったのだが、その制御は21世紀現在だからこそ容易に可能なモノだと言える。

 いまならコンピュータであらかじめプログラムしておけば、動作指令を出しただけで自動的に脚を動かしてくれる。しかし、コンピュータが無い時代には、動作において必要な各部の操作や重心の微調整などをすべて操縦士が行わなければならなかった。それを、無数のスイッチと4本のレバーやペダルで行うのだからどれほど大変だったか想像してみて欲しい。そのうえ、二人の呼吸が合わなければうまく動かないというオマケまで付いていた。


 普通ならばここで開発が頓挫してしまう。


 実際、戦後、輸送騎のコピーに取り組んだ米英は90年代になるまでその制御がうまく行かず実用化出来なかった事実を見れば、如何に大変な事だったかが分かるだろう。

 では、なぜ二大国をして長らく実用化出来なかった装置を、白石は戦前に創り出せたのであろうか?


 未来人だったから。


 これほど納得できる言葉は他に見つからない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ