鉄脚とは
インパール攻略戦と言えば戦争後半に行われた作戦の成功例と言えるだろう。そもそも、大陸打通が成功するのは当然だった。当時の中国において、蒋介石の軍事力は統制も取れず、非常に脆弱だった。
たいして、ビルマ方面において英印軍相手に侵攻作戦を行うのは無謀であると誰もが思ったのは間違いない。
実際、第15軍司令官であった牟田口廉也は作戦実施に最後まで反対していた。
彼の言う通り、現地の交通網は非常に脆弱で雨季には補給が困難であり、乾季であっても十分な保障が無かった。
しかし、大本営では補給能力確保のため破格の対応を約束したが、そのために送られるトラックをいくら受け入れたところで、問題となるのはその通行を可能にする道路をいかに整備し維持するのかという事であった。
当時、フィリピンやマレーにおいて多くの米英軍トラックを鹵獲した日本軍であったが、太平洋の島々ではそもそも、道路整備が進んでおらず、動かすための燃料を確保するにも多くの問題があった。かといって本土や大陸へ送るのもやはり、貧弱な交通網や燃料輸送路を考えるとあまり現実的とは言い難かった。
少なくとも、油田に近く、燃料供給という点で有利と思われたビルマでならば、有効活用できるだろうという発想だったのだが、現実は現地の情勢を知る牟田口の主張通り、他と状況に大きな違いは存在していなかった。いや、より劣悪とさえ言えた。
現在でも一部誤解があるところだが、インパール作戦やその支作戦であったコヒマ攻略は現地の交通網によって達成されたわけではない。
現地にあった交通網は連合軍が援蒋ルートとして開設しようとしていたものを利用したに過ぎない。流石に当時の日本軍にその様な道路工事を行う余裕も重機も存在していなかった。
では、何によって達成されたか。
今では題材にしたアニメも放映されるほど有名になっているように、多脚輸送騎によってであった。
当時、輸送騎と共に輜重を担った軍馬はその多くが途中で死亡するような苛酷さであり、現地の気候も日本から送った軍馬には厳しいものだった。
動物輸送という点では、軍馬や牛よりもラバが最も適した手段とされていたが、日本軍はその入手手段も限られ、輸送騎に頼る状態だったという。
そもそも、インパール作戦を成功に導いたのは、トラックにかわって大量の輸送騎をビルマに送ったからだというのが今では定説となっている。
そのため、多くの仮想戦記においてはビルマではなく太平洋の島々において多脚輸送騎や戦闘騎が活躍するものが多い。
本来であればビルマで活躍した輸送騎や戦闘騎は戦後、米英がコピーし、発展させると考えられるのだが、21世紀に至っても、同じものを再現することは難しく、最新のコンピュータ制御によってかろうじて再現できるというのが現状である。
このため、実用化されているのはアフガン戦争において米軍が使用する無人輸送騎程度であり、日本においては戦争のイメージもあって、東日本大震災以降にようやくその有効性が見直されつつあるというのが現状である。
このようなオーパーツともいわれるロボットを70年前の日本で開発、量産し、しかも一つの戦線を支えたというのは非常に興味深いものがある。
そして、なぜ、戦後は量産や発展が行われなかったのかという事についても大いに疑問がもたれるところとなっている。
あるオカルト誌の言葉を借りるならば、、開発、製造に当たった白石国倫という人物が未来人だったからという事になる。確かに、未来の技術によって作られたとすれば納得できなくはない。しかし現実には、21世紀において再現不可能な素材が使われていたという痕跡は一つも発見されてはいない。
にもかかわらず、現代の技術をもって輸送騎を復元しようとしてもうまく機能させることが出来ず、制御機構を現代の技術で代替しなければならない。
これは戦後も同様であった。
輸送騎を接収した米英もそのコピーに注力したのだが、子供のおもちゃ程度に動かすことは出来ても、輸送騎のようなスムーズで柔軟な動きを行う事は困難で、輸送騎や戦闘騎に内蔵されたジャイロでバランスをとる事は不可能だった。
米英においても、輸送騎から制御基板を移植すれば動かすことは可能だったが、基盤にも寿命がある。金属で作られた基盤をいつまでも欠損なく保つのは不可能であったし、使用を続ければ故障や破損によって徐々にうしなわれていってしまう。
結局、ビルマに残された制御基板の備蓄を使い切った段階で開発が頓挫し、再度日の目を見るのはコンピュータの処理能力が輸送騎の制御基板に追いついた1990年以降になってからの話だった。




