8 思い出の残る場所
自分にとって確かなものなんて何一つとしてなかった。
そんな世界の中でただ彼女の存在だけが唯一のよすがだった。
◆
お前は誰も救えない。
だからあなたには何も残らない。
「――っ!」
弾かれたように跳ね起きる。胸に痛みを覚えるほど動悸は激しい。全身が汗でびっしょりと濡れていて、体に服がベタつく感触に不快感が込み上げてくる。
思わず自分の体を両手で掻き抱くと、体は意図せず微かに震えていた。荒い呼吸を繰り返しながら、どうにか心を落ち着かせようと試みる。
悪夢を見ていたような気がする。夢の内容は何故か思い出せないが、どうしても嫌な印象は拭えない。
暗い澱みの中に囚われてどこまでも深く沈んでいく、自分が自分でなくなってしまうような嫌な感覚。
だというのに、どこか少しばかりの心地よさも同時に感じられ、それに身を任せてしまえればどれだけ楽になれるだろうかと思ってしまう。
……こんなことでは駄目だ。夢は所詮夢でしかなく、そんなものに振り回されてはならない。
深呼吸を繰り返して体全体を落ち着かせていく。十数秒の間それを繰り返し続けた。
ようやく周りに気を配る余裕ができると、今更ながらに自分はどうやらベッドに寝かされていたらしいと知る。跳ね起きた時にずり落ちた毛布が腰元までを覆っていた。
ゆっくりと周囲を見渡してみる。この見覚えのある室内は恐らくギドおじさんのへ、や――
それが見えた瞬間、呼吸が止まった。
部屋の隅に、あの男女の亡霊がいた。
頭の中が真っ白になる。悪寒がぶり返してきて本能的に両手で頭を抱えて蹲った。
体が自分の意思とは無関係に震え出す。得体の知れない恐怖に襲われる。まるで幼い頃のように。
もうリーネは居ない。幼い頃にあの悪夢のような現実から自分を唯一救いだしてくれた彼女は。
縋れるものはもう残されていない。自分自身で克服しなければならない。
声を受け入れた、あの時のように。
これは現実じゃない。現実であってはならない。強く自身にそう言い聞かせる。
これは幻覚だ、幻覚の筈だ。そうでなければ救いがなさすぎる。彼らが死後の安らぎすら得られずに恨みと憎しみに囚われ続けるだなんて、そんなのは報われないにも程がある。
自身を奮い立たせる。心を強く保て。意識を集中させろ。決して惑わされるな。
意を決する。
克己しろ。
ゆっくりと顔を上げる。
眼差しは変わらない。
静かに立ち上がる。
己だけを見ている。
恐怖を捩じ伏せて歩み出す。
身じろぎもしない。
近づく。
恐れてはならない。
近づいていく。
逃げ場なんてもうどこにもない。
手を伸ばせば触れられる距離で相対する。
向き合え。
手を伸ばして男の肩に触れる。
男の肩に手が触れた途端、霧が晴れるように男は掻き消えていった。
これでいい。
女の肩にも同じように触れると男と同じように彼女も消え去っていった。
これでいい筈だ。
大きく息を吐き出す。よく見れば手は小刻みに震えていて、未だ自分は畏れを消しきれていないのだと知る。
リーネと離れただけで、自分の心はこんなにも弱かったのだと自覚させられてしまう。
今更ながらに彼女と離れるべきではなかったのではないかと思ってしまう自身に酷く自嘲的な気分になる。
自分のことすら何一つ思い通りにならない現実を、いっそ全て投げ出してしまえたら。
かぶりを振る。そんなことを考えてはならない。弱気になった己は誰よりも弱いのだから。
周囲に気を配る余裕すらないまましばらく立ち尽くしていると不意にガチャリ、と部屋のドアが開く音がしてギドおじさんの声が聞こえた。
「ん? おお、もう起きてたのか。つうかお前部屋の隅で何してるんだ」
慌てて振り向くと水差しとコップを持ったおじさんが怪訝な表情でこちらを見つめていた。
……ヤバい。今の自分は明らかに変な奴だ。
「あ……。これは、その……、懐かしい部屋だなって」
「何にもない場所を見て何が懐かしいんだお前は。変人にでもなったのか」
「……弟子に対して言い草が酷過ぎない?」
「師の言うこともまともに聞かん癖に何が弟子だこのバカたれが」
おじさんは嘆息しながらそう言うとこちらへ向かってくる。
「いや……、だってあれは仕方ないでしょ」
「それでぶっ倒れてたら世話ないだろう。ん? なんだ、お前汗だくじゃないか。悪夢でも見たのか」
「あ……、ごめん。ベッド汚してしまって」
「別に構わん。寝小便した訳じゃあるまいし軽く洗って干せば済む話だろう」
そう言って一旦話を区切るとおじさんはコップに水を注いで俺へと手渡してきた。次いでベッドの横に据え付けてある机に向かい水差しを置いて椅子に座る。
「ほれ、そんなとこにつっ立ってないでこっちに座れ」
「……ありがとう」
好意に甘えベッドに腰掛ける。その直前に窓から見えた外の景色は夕日が沈みだす頃合いの橙色に染まっていた。手渡されたコップに口を付け水を飲むと乾ききった喉と体が潤されていく。
「まあ、なんだ。お前が背負われて帰ってきたと知った時は肝を冷やしたが……」
おじさんはごほん、と軽く咳払いをして続ける。
「だがまあ、よくやった。お前は村の、俺たちハンターの誇りだ」
「……そうかな」
「そう謙遜するな。お前が行かなければあのお嬢ちゃんとその連れはもっと悲惨な目に合ってただろうよ」
「そう言えばその二人は?」
「ああ、二人なら無事に帰ってきて今は休んでる筈だぞ。明日行商人と一緒にミラマスに戻るそうだ」
「そう……。あと二人の犠牲者の遺体は?」
「それなら村まで下ろしてきてある。明日埋葬する手筈だ」
「そっか……」
村まで運んできたからさっきも出てきたのだろうか。自分のことなのに分からないことが多すぎる。
一先ずそれらは後で考えることにしてとりあえず自分の要件を先に済ませておくことにする。
「あ、そうだ。おじさん、俺これから暫くの間カナバに住むことにしたから」
そう言うとおじさんは一瞬呆けたような顔をした。
「はぁ? いきなり一人で帰ってきたと思えば村に住むってお前……。リーネはどうしたんだ、まさかケンカでもしたのか?」
「そんなことしてないよ……。リーネとケンカなんて出来る筈ないし」
「だったらなんだっていきなりそんな話になるんだ」
リーネと離れた話をするのは心が苦しくなる。それでも相手が知らない以上は避けることも出来ない。辿々しくなりながらもリーネと離れたことを説明する。理由は自分の実力不足で彼女の足手纏いになっていたことにしておいた。実際互いの実力を比較すれば正確とは言えないまでも間違いと言うほどでもない。
そのついでにルードから聞いた話と野盗たちの出身が侯爵領であることも含めて、これから裏山とトーガ山脈を警戒しなければならないことも話しておく。おじさんは神妙にそれを聞いていた。
「なるほどな……。大体の事情は分かったが、お前はそれでいいのか」
「今更いいも悪いもないよ。……もうリーネは行ってしまったんだから」
「捨てられた子犬みたいな顔してよく言うもんだ」
「そんな言い方……」
「そんなもクソもあるか。それだけ好きなら今からでも追っかけたらいいだろう」
「……そんなの無理だって。行き先も知らないのに」
おじさんはまた嘆息しながら呆れたようにこちらを見つめてくる。
「全くお前は……。ハンターが易々と獲物を逃してどうするんだ、このバカ弟子め」
「おじさんだって独身じゃん……」
「ほっとけ!」
口は悪くとも自分を心配してもらえるのが少しだけ嬉しかった。その照れ隠しをするようにおじさんに告げる。
「暗くなる前に井戸で汗を流してくるよ」
「ああ、それならさっさと行ってこい」
「その……、色々心配かけてごめん」
「いいから早く行けこのバカたれ」
おじさんに手拭いと代わりの服を借りてから家を出てすぐ近くの共同井戸に向かう。この時期は日が沈むとまだ少しだけ肌寒いが、こんな汗臭い状態で過ごしたくはない。
井戸に着くとそこには先客がいて、自分と同じ目的らしく体を洗い流している。よく見ればケインで、こちらに気付いて声をかけてきた。
「あ、カイト。もう起きて大丈夫なのか? 心配したんだぞ」
「ああ、別に怪我した訳じゃないしもう何ともない」
そう答えるとケインは頭を洗い流した。水気の多い頭を振ると短い金髪から水飛沫が上がる。子どもから大人へと変わり始めた顔付きは見ようによっては精悍にも見える。メイと同い年くらいだろうか。
「そっか。俺たちは明日行商人の人と一緒にミラマスに帰るからさ、今のうちにちゃんと体を綺麗にしとこうってメイが」
「そうか。俺も暗くなる前に汗を流しておこうと思って来たんだ」
ケインによればメイは村人の部屋を借りて体を拭いているらしい。自分も服を脱いで井戸から水を汲み勢いよく頭から被ると、冷たい水が汗を洗い流し体全体を冷やして心地よい感覚になる。
「あのさ……。その、朝はごめん。無神経だった」
「別に気にしてない。今朝は俺も調子に乗り過ぎたからお互い様だ」
今度は桶に汲んだ水を少しずつ頭に流して髪を念入りに洗っていく。
「カイトはさ……、これからどうするんだ?」
「どうって?」
「いや、リーネさんとペアを解消したんだろ。だから気になって」
「ああ、そういうことか。これから暫くはこの村に住むことになるな」
ケインは俺の答えに若干怪訝な表情になる。
「それって冒険者を辞めるってことか?」
「そういう訳じゃない。色々やることが出来たんだ」
今や冒険者であることは自分に唯一残されたリーネとの繋がりだ。それを自分から断つことなんて考えたくもなかった。
ケインにルードから聞いた話と野盗の頭目から聞いた出身地を絡めて話す。これからトーガ山脈全体に野盗が増えてくるだろうと。
その話を聞くうちにケインは神妙な顔付きに変わっていった。
「マジかよ……。この村の裏山はいい狩場だと思ったのに」
「これからは危険だから止めとけ。単純に割りに合わないし次も絶対に助けてやれるとは限らないからな」
手拭いを桶に突っ込み水を絞って体を拭いていく。
「やっぱそうかな……。メイがさ、カイトに弟子入りを頼んでみようかって言ってたんだ」
ケインの言に思わず呆気にとられる。意味が分からなかった。
「……何でいきなりそんな話になるんだよ」
「だってさ、カイトは強いじゃんか。だから俺たちが腕を磨くには丁度いいかなって」
頭がくらくらしてくる。二人と一緒に? そんなの自分の惨めさが更に際立つだけだ。絶対に受けたくない話だった。
体を拭くのを一旦止めてケインに向き直り諭すように言い聞かせる。
「ケイン。メイが大切ならどこかのパーティーに加入するか自分たちで仲間を集めて新しいパーティーを組め。それが一番手っ取り早く強くなれる方法だ」
「……でもそれって俺たち自身が強くなる訳じゃないと思うけど」
「そうでもないぞ。実力の拮抗した仲間通しで高めあった方が成長は早いんだ。お前らみたいなちゃんと基本が出来ている奴らなら尚更そうだ」
「……そうなのかな?」
褒められたのが嬉しいのか少し照れ臭そうに年相応の表情で笑ってケインは体を拭き始める。
「そうだ。それにこれからの俺に他人の面倒を見る余裕はない。悪いことは言わないから俺みたいに一人になりたくなければそうしとけ」
自分で言っておきながら物凄いダメージを食らってしまった。それを誤魔化すように体を拭くのを再開する。そして体を拭き上げるとおじさんに借りた服に着替えて汗まみれの自分の服も洗っていく。
ケインも体を拭き終えて服を着始めていると、微かな足音がしてメイの声が聞こえてくる。
「ケイン! いつまで体洗ってるの? 男の子なのに時間掛かりすぎだよ」
「メイ、ごめん。カイトと会ったから少し話してたんだ」
「あ、ホントだ。カイトさん、もう起きて大丈夫なの? 皆すっごく心配してたんだよ」
「ああ。もう大丈夫だ」
「そう。よかった」
メイを見れば彼女もさっぱりと小綺麗になっていた。薄茶色のショートヘアにくりくりとした可愛らしい目付きの少女。メイは性格的にはリーネよりもサーナに近く、ケインとて自分には似ても似つかないのに二人を見ているとどうしても楽しかった過去を想起させてくる。
気付けば、この二人のことが苦手になっていた。
二人から逃げるように言葉を吐き出す。
「俺は体が冷え過ぎないうちに行くよ。お前たちもそうしとけ」
「うん、そうだね。ケイン、行こっか。村の人が晩御飯ご馳走してくれるって言ってたよ」
「マジ? 丁度腹ペコだったんだ。食べまくってやろっと。じゃあカイト、またな」
「カイトさん。ホントに色々ありがとうね」
そんなやりとりを経て二人はじゃれあいながら歩き出す。メイがケインの髪型を整えようとしてケインはそれをくすぐったそうに受け入れている。幸せそうな二人を見ていられずに思わず目を逸らした。
おじさんの家に向かいその庭に洗った服を干していく。朝には乾いているだろうか。
これから一度ミラマスに戻ってギルドへの報告と冒険者たちへの注意喚起を頼まなければならない。それに宿を引き払う必要もある。
だが、どうしても二人と一緒に行きたくはなかった。
情けない自分に嫌気が差す。感情の制御が出来そうにない。
人気のない場所を目指して歩き出す。一人になりたかった。
夕暮れの中を当て所もなく彷徨った挙句に人気のない場所に着けば、そこはリーネと子どもの頃によく遊んでいた村と畑の境目にある広場だった。芝生の上に腰を落として景色を眺める。
この村は思い出が多すぎる。どこへ行っても彼女と共に過ごした幸せな過去が色鮮やかに思い浮かぶ。
現実から目を背けるように膝に顔をうずめた。不意に涙が零れてくる。
思い出があれば自分は大丈夫だと思っていた。
リーネと離れてたった二日で。
二人の生者と二人の亡霊。
そのたった二つの出来事だけで覚悟は簡単にへし折られてしまった。
リーネに会いたくて堪らなかった。一目その姿を見るだけでもいいのに、彼女の居場所すらも今は分からない。
いつか誰かが言った同じ空の下だなんて言葉は、今の自分には何の慰めにもならなかった。
俺はリーネの傍に居られれば、ただそれだけで幸せだったのに。
導入部 了