4 異能
一メルデ = 一メートル
村の裏山から聞こえてくるその声は、男のものとも女のものともつかず、老いも若きも含んだものであり、高音とも低音とも感じられる声色だった。
その声には負の情念と怨嗟のみが籠もっていて、ひとたび聞こえてしまえば本能的な恐怖を煽り立てるその不気味さが子どもの頃は何よりも怖くて、恐ろしくて仕方がなかった。
両親に相談しても幻聴だと一笑に付され、村の皆に変な事を言わないようにと釘を刺されるのみで、自分の他にはあの声が聞こえる者などいないのだと、そう理解させられた。
報いという言葉の意味すら知らなかった幼い頃は、一人ぼっちで心細くて泣いて震えることしかできなくて、その声が聞こえる自分だけが世界から見放されたように思っていた。
リーネに近づいたのは、最初はただ助けてほしかったからだ。
頼りにすべき両親や村の大人たちは日々の仕事に忙殺されていつも一緒に居てくれず、子どもは子ども同士で遊んでいろと言われるだけで。
だからといってあの声が聞こえるだけで泣いて震えてしまう自分などを相手にしてくれる同年代の男の子はどこにも居らず。
一人ぼっちでいると、気が狂ってしまいそうで。
村の子どもたちの中で誰よりも喧嘩が強くて凛々しく見えたリーネに擦り寄ったのは、最初は打算以外のなにものでもなかった。
あの頃はリーネの方が背が高くて、ほんの少しだけ見上げるように彼女を見つめ縋っていた。
リーネは幼い頃からとても可愛くて、少しお転婆だが将来は村一番どころか領内でも有数の美人になるだろうと大人たちに褒めそやされていたが、当時の自分はその可愛さに見惚れる余裕すらなく、ただ彼女に守ってほしいと願うだけだった。
彼女にはどれだけ感謝してもしきれないほどに色んなものを与えてもらった。傍に居ることを許してくれた。心細くて泣いて震えることしかできなかった自分を救ってくれた。何度もその愛らしい笑顔を向けてくれた。そしてそれだけでなく、ずっと守り続けてくれた。
例えリーネ自身がそう思っていなくとも、自分は確かに彼女に救われていた。
凄い女の子だと思った。リーネの傍に居るだけでまるで魔法かなにかのように心細さも不安も吹き飛んでいった。もしこの世界に女神様がいるのなら、リーネはきっと女神様本人か、そうでなければ女神様の生まれ変わりなんだと当時は本気で信じていた。
そんな風に一緒に過ごすうちにリーネの傍に居ればとても安心できるようになって、いつしかその思いは恋慕へと変わっていき、ずっと彼女の傍に居たいと願うようになってしまった。
あの頃の自分は愚かで、それが己には過ぎた願いだなどとは微塵も思っていなかった。
◆
視界の中に自分を先導する少女がいる。あれから山へと入った後、互いに簡単に名乗りを交わして先を急いでいた。
メイと名乗った少女の動きは鈍い。聞けば朝から山に入りケインという仲間と共に魔物を狩っていて、その帰りに不運にも野盗に遭遇してしまい仲間が彼女を逃す為に囮になったらしい。朝からそれだけ動いていれば消耗していて当然だった。
周囲の空は青々と生い茂った木々の枝葉に覆い隠されており、それはこの場では日が沈みきった頃合いの暗さを更に増す要因でしかなく、短時間動き回っただけでも方向感覚すら覚束なくなってしまうだろう。
夜の山での安全確保の方法はギドおじさんに師事していた頃に散々叩き込まれているが、それは危険を避けて身を潜めさせ下手に動かないことであり、今この状況で役立つことではない。
しかしだからといって動かない選択肢はなく、助けられるかもしれない命を助ける為にも最善の行動を選ばなければならない。
昼間のような明るさもない急峻な地形では集中していようがいまいが物音を殺すことは難しく、木の根や石にも簡単に足を取られてしまう。本調子に近い今の自分でも動くことを躊躇してしまうような現状。
視界は制限されていて生物の痕跡を見つけることも困難。そして時間が経つほどに暗さは増していく。普通ならどう考えても最悪の状況だった。
正直に言えばメイは足手纏いだがそれを伝えても彼女が納得しないのは明白で、かといって彼女のペースに合わせていたら人質の命がどうなるか分からない。気は進まないが力に頼るべきだ。悪党以外の正気を保った人間に力を見せたことは未だないが、この状況では手段を選んでいられそうもない。
選べる手段は他にない。ベストな選択肢などはなく、今あるのはよりベターな手段のみ。
リーネとの別れの際の約束を果たさなければならない。例えそれが自分の一方的な宣言で彼女がそう認識していなくとも、もう自分にはそれしか残されていない。
この山の地形は幾度とない狩りや駆け出しの頃のリーネとの魔物の討伐した経験で頭に叩き込んである。後は自分の覚悟のみで事足りる。
もし目の前のこの少女に秘密を言い触らされて広まってしまったら、その時のことはその時に考えればいい。もし心優しいリーネがここに居れば何としてでも助けようとする筈だから、かつて幼い頃の自分がリーネに救ってもらったように今は自分に出来ることをする。そう決心すると立ち止まりメイに声をかけた。
「メイ、一旦止まれ」
「どうして? 急がないといけないのに」
怪訝な表情のメイに背負っていた背嚢を外して差し出す。
「俺に考えがある。お前が背負え」
「えっ……と」
メイは困惑気味に俺と背嚢を交互に見つめている。
「今のペースじゃ間に合わないかもしれない。俺がメイを背負っていく」
「そんなの、いくらあたしが疲れているからって、山の中で人を背負って今のあたしより速く動ける筈がないよ」
「出来るから俺を信じろ。お前は消耗し過ぎている。このままだと仲間の元に辿り着く前に倒れるぞ」
そう言って強引に自分の弓と矢筒と背嚢をメイに手渡した。メイに背中を向け跪いて早くしろと態度で促す。
「えっと、その、本当に……、任せても大丈夫なの?」
「さっきからそう言ってるだろ」
メイは僅かに逡巡してから荷物を纏めておずおずと俺の背中におぶさってきた。
「ポーションが入ってるから背嚢は絶対に落とすなよ」
「うん……。その、あたし、不甲斐なくてごめん」
「今はそういうのはいいから、仲間の無事を祈ってやれ」
メイを背負って立ち上がる。朝から彼女とその仲間が狩っていたからか、周囲に魔物の気配はない。心を研ぎ澄ませていく。
声が聞こえる。
――報いを、与えよ
声に従う。報いを、与えよう。
その声を受け入れた瞬間、ばちり、と何かが切り替わる音が頭の中に響いた。
視界が急激に変化していく。目に映る全てのものが灰色に塗り変えられていき、己の認識する世界が書き換えられていった。視界がクリアになり日が沈みきった暗い山中でも周囲の全てがよく見渡せる。
「メイ、方向はどっちだ」
「あ、えっと……。あっちだよ」
メイは手前の奥の方へと指差した。無我夢中で走ってきただろうに方向を見失っていないことに感心する。これだけでも彼女のレンジャーとしての素質は申し分ないと分かる。
本当は方向など聞く必要はない。大まかな方向は声を受け入れ力を発現した時点で分かっていたが、後で変に勘繰られないように辻褄を合わせておく必要があっただけだ。
山の地形を思い出す。山林の中で十人以上が寝泊まり出来るような拠点に適した場所は限られる。必然的に場所の推定は簡単に出来た。手前奥の方向には拠点に適している開けた場所は1箇所しかない。これでメイの役目は終わった。
「飛ばすからしっかり掴まってろ。後は不用意に喋るな。舌を噛むぞ」
そう言ってメイが了承してぎゅうとしがみ付いてきたのを確認してから足を踏み締める。いくらでも力が湧き上がってくるような感覚に身を委ねると、体中が全能感に支配されていく。そう、何故ならば――
この灰色の世界の中で、私たちに敵う命など存在しないのだから。
力を解放する。走り出した足は人の限界を超えて獣よりも平地を走る馬よりも速く、地形が山林であることなど何の障害にもならない。
木々の間を流れるように擦り抜けて走る。急峻な地形など歯牙にも掛けず大人の背丈ほどもある岩や崖をも一足で飛び越えて一直線に最短距離を駆け抜けていく。そしてそうでありながらもまるで平地を走っているかのように思わせるほど体の重心は乱れず足取りは確かだった。
「うそ……。信じられない、こんなのって……」
背中でメイが驚愕の声を発する。仕方のないことだとは思うが、出来れば大人しくしていてほしい。人の命がかかっている以上、あまり速度を緩めたくはない。
「喋るなって言っただろう。すぐに着くから後少しだけ我慢してくれ」
「で、でもこんなの凄すぎる。こんなの黒鉄級に出来る動きじゃない……」
何というか人間に出来るような動きではないと思うのだが、聖銀やミスリル級だと可能なのだろうか。自分はそこまで高位の冒険者を見たことがないので分からないが、そうだとすれば都合が良い。メイへ掛かる負担を考慮して全力を出さなかったのが幸いだったかもしれない。後で言い訳がしやすくなる。
そしてメイは興奮しているのか話すのを止めようとせず再度注意しようかと思ったが、それよりも何故彼女が俺の冒険者としての等級を知っているのかが気になった。
「俺のことを知ってるのか?」
「うん。えっと、リーネさんとペアを組んでるカイトさん、だよね。有名だよ。その、主にリーネさんの方がだけど……」
「ああ、それはまあ……。リーネは天才だからな」
「リーネさんは凄く強いって皆言ってたよ。あの強さで鋼鉄級になれないのもペアだからって……」
言われてみれば確かにそれもあったのかもしれない。だがそれももう済んだことで、俺という枷から解き放たれたリーネは極光の皆と共にどこまでも飛躍していけるだろう。
そう思うと、リーネが褒められた嬉しさと同時に寂しさも感じてしまう。
「あの、ごめん……。ちょっと無神経だった。でもあたしとケインもペアで活動してて、二人に憧れてたんだ。嘘じゃないよ」
「気にしないでいい。それよりもうすぐ着く。お喋りはここまでにしておこう」
「えっ、もう? まだ山に入って三十分も経ってないのに……」
俺が推定した野盗の拠点が正しければそこへ向かうのに登りだと麓から急いでも2時間半はかかる。メイの指摘は最もだが、既に俺には遠くに篝火の明かりが見えていた。
メイにはまだ見えていないのだろう。速度を落として物音を立てないように注意しながら遠くに見える篝火へと近づいていく。それと並行して身を潜められる場所も探す。戦いにメイは邪魔でしかなく、彼女が身を隠せる場所が必要だったからだ。
生物の気配を探る。夜になれば活動する魔物の数は少なくなるが夜行性の種もおり、この山であればホーンウルフがその筆頭で、その群れにさえ気を付ければ夜間の安全確保はそこまで難しくはない。
周囲を見渡しつつ引き続き生物の気配を探る。この力に身を委ねた時なら例え夜間でも障害物がなければ常人には理解の及ばない程遠くまで視界は利き、気配に限れば障害物すらも関係ない。
篝火の周囲以外に動くものはなく、現時点でここら一帯に魔物は居ないと判断する。また一段と速度を落として篝火に近づくと、メイもそれに気付いたようで指を差しながら俺に伝えてきた。
「あそこ……。多分あの篝火のところがそうだと思う」
「ああ、人が複数いるのが見えた。あれで間違いないと俺も思う」
「うん……。これからどうするの? あたしに出来ることなら何でもするよ」
「まずは様子見だ」
篝火から七十メルデほどの距離まで近づくと、一本の大木の根元に人が一人隠れられるくらいの大きな樹洞を見つけた。程よい距離でこれならばメイの身を潜めさせるのに申し分ない。そう判断すると音を立てないように注意して背中からメイを降ろした。
メイに向き直り相対する。彼女の瞳は確かな希望の光を宿していた。
「様子を見てくる。いけそうなら野盗はそのまま俺がやる。メイはこの樹洞に隠れててくれ」
「そんな、あたしだって戦えるよ」
「ダメだ。正直に言うと今のメイは足手纏いでしかない。この距離ならあいつらには見つからない。ここが安全なんだ」
メイは疲労の色が濃く戦闘に適さないのは明らかだ。万全ならばともかくこんな状態で戦わせる訳にはいかない。
それに、この仲間思いの心優しい少女に自分が戦うところを見られたくはなかった。
「でも、ここまで来て何も出来ないなんて……」
「俺をここまで案内してくれただろ? それはメイにしか出来ないことだったし、十分役に立ってるよ」
「あたしにだって弓で援護するくらいは出来るよ」
「この距離じゃ矢は届かないし、仮に届いたとしてもまず当たらない。だからってこれ以上近づけば見つかる可能性がある。必ず上手くやるから俺を信じろ」
何の心配もないとばかりにメイの瞳を強く見つめる。彼女はとても迷っているようだったが、数十秒ほど経ってから俺を見据えて深く頷いた。
「分かった、信じるから……。ケインを……、ケインを絶対に助けてね」
「任せろ。昔から人助けは得意なんだ」
そう言ってメイに笑いかけてやる。彼女が暴走などしないように少しでも落ち着かせておきたかった。つられてメイも少しだけ笑う。
「背嚢を貸してくれ。ポーションを分けておきたい」
「あ、ごめん。気が利かなくて」
「気にしなくていいのに、山に入ってからメイは謝ってばかりだな」
笑いながらメイから背嚢を受けとって中からポーションを1本取り出した。そのポーションを腰袋に入れて背嚢をメイに手渡す。
「中にポーションがもう1本あるからこれはメイが持っていてくれ」
「うん、分かったよ」
「後は弓と矢筒をくれ」
メイが俺の弓と矢筒を手渡してくる。代わりに矢筒から矢を15本程度取り出して何かあれば護身用に使うようにと念を押した上でメイに渡した。
「それじゃ行ってくる。魔物に気を付けろよ」
「うん。あの、カイトさんも無事で」
「ああ」
メイと別れて物音を立てないように注意しながら篝火の近くへ向かう。その周囲には簡易的な住居すらなく、昨日今日そこを拠点にしたのだろうと見て取れた。
野盗たちが歓声を上げながら一人の男を痛め付けている。恐らくはあれがケインで間違いないのだろう。安堵する、生きていてくれてよかった。後は野盗どもをなぶり殺しにするだけでいい。
報いを、与えよう。