七夕なんて信じない 前編
「はー、疲れた。仕事しんど」
会社から帰ってきた笹原はスーツを雑に脱ぎ捨てるとキッチンへ向かい、下着のまま冷蔵庫から五〇〇mlの銀色に輝く缶ビールを取り出し封を開けた。空になった胃に数口ほどビールを流し込むと、缶を手にしたままリビングへと向かう。
「明日は土曜だし、許されるでしょ〜。それにしても最近雨多いなぁ」
そう言いながら笹原はテレビの電源をつけ、チャンネルを回し、ニュースをやっている局に合わせる。
『明日は七夕ですが、今のところこの地方は晴れる見込みです。それでは次のニュースを……』
テレビには天の川をバックに、七夕の短冊のイラストが画面に映し出されていた。もう夕暮れだが、たしかにこのところ雨だった割には窓から覗く限り雲は少なく、綺麗な夕焼け空が見える。
「ああ、そういえば明日は七夕か。ふぅむ」
笹原はビールを飲みつつ七夕に関する記憶をすこし辿ってみる。幼稚園、小学校、……最後にやったのは中学だろうか。高校以降はプライベートでも、学校でも、まして会社でもやった覚えがない。
パティシエ、水泳選手、漫画家、色々かいたっけな。あ、そういえば幼稚園ではケーキになりたいって書いたっけ。
もうすでに酔いが回りはじめている笹原はいい気分で笑みを浮かべた。
「笹はないけど、ま、いいでしょ。笹原だし。ふっ、ふふふ」
自分のギャグのくだらなさに笑みを浮かべながら、笹原はその辺にあった紙を半分に折って短冊状にすると、ペンでこう書きなぐった。
夕雲くんと結婚できますように!笹原
そしてその即席の短冊を持ってベランダに出ると、洗濯バサミで挟んだ。
夕雲というのは同じマンションに住んでいる笹原のタイプの男子大学生だ。夕雲は笹原よりも後にここに越してきており、若い男が少ないこのマンションでは、笹原が唯一そういう目で見ている人物として度々笹原の妄想の対象にされている。
「いやいや、付き合ってもないのに結婚って。はーバカバカしい」
数秒ほどそれを眺めた後そう呟き、ビールをあおると、後ろからケータイの着信音がした。笹原はビールをリビングのテーブルに置き、咳払いをすると電話に応答した。
「もしもし、……そう、いまビール飲んでるとこ。うん、それでさ……」
笹原が電話を終える頃、あたりはすっかり暗くなっていた。
「あ、窓閉め忘れてる。蚊が入っちゃったかな。あ、スーツも!シワになっちゃう。これもちゃんんとかけないと……」
そう言いながら、笹原が窓を閉める。
「ああ、かわいい子を抱きしめたい」
笹原は飲み終わったビールの缶をシンクに放り投げながら自身の願望を口にした。
翌日、笹原が目を覚ますと時刻はすでに昼頃だった。シャワーで寝汗を流し、タンクトップを着てホットパンツを履く。いつもの夏装備だ。今日は何をしようか考えつつケータイを開くと、夕雲からメッセージが届いていた。
『今日暇ですか?もしよければこの前話してたお店で一緒にご飯できたらと思ってるんですけど』
笹原は連絡先の交換に始まり、勉強を教えてあげたり、料理が余ったという口実で手料理を食べさせたりと、少しずつ夕雲と距離を詰めていっていた。しかし、夕雲から笹原への誘いは初めてだったので、笹原は思わずガッツポーズをとり、狂喜した。
「っしゃあ。まじか。七夕様様だな」
送信時刻を確認すると、そこには九時十分と書かれていた。
『おっけー。是非いこう』
そう送信した後、笹原は急いで準備をすると、返信を待たずに夕雲の部屋のチャイムを鳴らした。
チャイムを鳴らすと、返事がしてすぐに笹原が出てきた。
「おはよ、今から暇?」
「は、はい」
「んじゃ、待ってるから準備してー。君の誘ってくれた夕食の前にドライブでも行こうと思ってさ」
「是非、いきます!」
数分後、夕雲がおしゃれをしてでてきた。比較的ラフな格好をした笹原に対して、夕雲はすっきりした清潔感のある服装だ。
「それじゃ、行こうか」
笹原がリングに指を引っ掛けて車の鍵をポケットから取り出し、夕雲に見せる。
「あ、あの、どこへ」
「んー、昼食べた?」
人差し指をリングに入れて車の鍵をくるくる回しながら質問する。
「いや、まだです」
「じゃあ、まずは昼食行こっか」
二人が笹原の車に乗り込むと、笹原が夕雲に質問する。
「何か食べたいものある?」
「えっと、その。僕はなんでも好きなので、笹原さんが好きなものならなんでも大丈夫ですよ」
はぁ〜天使かよ。
笹原が心の中で呟く。
「じゃあ、ラーメン食べよっか」
笹原は夕雲の好物の一つであるラーメンを選ぶ。
「僕、ラーメン好きです!」
「あはは、知ってるって。んじゃあ、君が行きたがってたとこ、行こっか」
笹原が鍵を差し入れ、エンジンをかける。二人が乗った車はマンションをあとにした。