忘却、再来
どちら様ですか。ヴァルは確かにそう言った。冗談を言うような性格ではない彼女が、ましてやこの状況で言うはずもなく、四人は混乱していた。
「どちら様って…。何言ってんだよヴァル。まさか寝ぼけてるなんてことは…」
「私は正常です。あなたこそ、何かの間違いなのではありませんか?」
ヴァルは失礼な、と言わんばかりにぴしゃりと言い放った。声も間違いなく本物だったが、いつになく冷たい口調だった。
「ウマ兄、まさかとは思うけど、またその…記憶喪失になってるんじゃ…」
「マジかよ…。なんだってそんなことに…」
「ヴァル。私がわからないか? お前の兄のエクスだ。ほら、お前と同じ、一角獣の角があるだろう?」
「ぼ、僕はクアです。姉様とずっと前に過ごしたことが……あ、これは覚えていらっしゃらなかったんでした…」
エクスとクアも声をかけるが、当の本人は思い出せず、同じく混乱し始めていた。
「兄…? 弟…? 思い出せません。一体何を言って…。そういえば、ここ数年の記憶がないのです。それに何か関係が?」
その言葉を聞くとリョウマは、可能性に賭けるかのように語りかけた。
「そう、そうだよ。お前は三年前、俺たちの家の前に倒れていたんだ。それから一緒に寝て、食べて、楽しいことも辛いこともたくさん、経験して来たんだ。思い出してくれよ…」
「え…ええ…」
ヴァルは必死に思い出している様子で、しばらく考えていたが、やがて口を開く。
「ごめんなさい。やはり何も思い出せません。私にある記憶といえば、お父様との…。あっ、思い出せました」
「本当か!? 良かった…。心配させんなよ…」
ホッと胸を撫でおろし、ヴァルに近づこうとするリョウマだったが、彼女は身を引いて再び冷たく言い放った。
「気安く近寄らないでください。下賤の者が汚らわしい…」
「ヴァル…?」
「私が思い出せたと言ったのはお父様との約束です。ここに、お前を唆し、言葉巧みに連れ出そうとする輩が現れると。そのような者が来たら、排除するように仰せつかっているのです」
ヴァルは自分の髪の毛を一本取り、握りしめた。しかし、何も起こらなかった。
「…おかしいですね。私の力があれば、ここで槍に変化するはずなのに。…仕方ありません」
ヴァルはつかつかと広間の隅へ歩き、飾ってあった鎧甲冑から剣を調達してきた。
「あなた達を始末するには、これで十分でしょう。さぁ、ご覚悟を」
「お、おい。冗談だよな…」
「ヴァル…。お願い、止めて…」
「冗談…? この期に及んで、まだそのようなことを言うのですか? 馬鹿にするのもいい加減にしなさい。もう、ただでは帰しませんよ」
ヴァルは容赦なく、四人を目がけて剣の一撃を振り下ろした。間一髪、避けたリョウマたちは散り散りになり、ヴァルから距離をとった。
「姉様…。本当に忘れてしまったのですか…」
今にも泣きそうな声で呟くクアに、エクスは駆け寄り自分の後ろに付かせた。
「残念だがそれが現実のようだ…。今はどうすれば記憶を戻せるか考えねば。しかし、そんな方法が本当にあるのか…?」
エクスたちの反対側では、リョウマとアスカが合流していた。
「くそっ、どうしたらいい…? あいつを元に戻すには…」
「今考えてる。でも、思い浮かんだのはどれも確実じゃないし、失敗したらこっちがお仕舞いかもしれないし…」
ヴァルはリョウマたちの方へ向かっていた。リョウマは焦り、アスカに助けを求める。
「何でもいい。今は可能性に賭ける」
「じゃあ…ひそひそ…」
アスカはリョウマに耳打ちした。策を聞いたリョウマは、ヴァルの前に立つと、久しぶりに会った友達に話しかけるかのように口を開いた。
「なぁ、覚えてるか?」
「…何がです?」
予想外の行動に、ヴァルも思わず足を止めた。
「えーとそうだな…。この数日か数週間、長いようで短かったけど、色々あったよな」
「………」
ヴァルは黙って聞いていた。リョウマは話を続け、アスカも会話に混ざった。
「異世界の旅を始めたのは、アスカが失踪したからだったっけ。あれは焦ったなぁ…」
「そうね。今思えば心配かけて本当に申し訳なかった。許してね…?」
「先ほどから一体何を…」
ヴァルは鋭い眼つきになり、再び歩を進めた。
リョウマとアスカは後ずさりしつつ、更に続けた。
「それからアスカを探したり、世界の危機なんてことに巻き込まれたりして、色んな所行ったんだよな!」
「そうそう、おかげでって言ったらなんだけど、ミーアやソファリアさん、お兄さんのエクス、弟のクアと、最初は敵対してたグロリアにも会えた。それだけでも旅に出た甲斐があったと思う!」
ヴァルの剣を避けながら、リョウマとアスカは必死に旅の思い出を叫んだ。
しかし、ヴァルの攻撃の手は緩まなかった。
「わけのわからないことを…。私には兄も弟もいません!! 惑わすのも大概にしなさい…!」
逃げ回るリョウマとアスカは、エクスとクアに合流。ひたすら思い出を語りかけるというアスカの策は失敗に終わり、四人はまたしても失意のどん底へと落とされた。
とにかく案を出そうと、四人は柱の陰に隠れ、ヴァルの様子を窺った。
「隠れても無駄です。どの道、ここから逃げることは叶わないのですから」
ゆっくりと近づくヴァルを警戒しつつ、四人は次なる策を練る。だが、確実と思えるものは何も出なかった。
「そう上手くいくわけはないと思ったけど、こうなったらもう絶望的ね…。正直、何も思いつかない…」
「あの、衝撃を与えてみるというのはどうでしょうか…?」
「クア、残念だけどそれで記憶が戻る保証はないよ。それに、あいつを殴るのはどうしても気が引ける。クアはできるのか?」
「いえ…。僕にもできません…」
「………」
エクスは深く目を閉じ、何かを考えていた。こうしている間にも、ヴァルは徐々に近づいてきていた。
「ちくしょう…。何でこんなことに。俺たちが、あいつが何をしたってんだ。還せよ…。俺たちの…家族を…!!」
拳を床に叩きつけるリョウマは、腕の宝石が目に入った。彼はひとつの可能性を感じ、柱の陰から身を出した。
「ウマ兄…?」
「リョウマ殿、どうした?」
「も、もしかして、戦うんですか?」
リョウマはヴァルに歩み寄り、ヴァルもその気迫に思わず歩を止めた。
「な、何ですか。それ以上近づけば、あなたの命を…」
「おっ、あそこにマンドラゴラのスープが」
「えっ? どこに…」
リョウマはヴァルが向こうを向いた一瞬の隙をつき、彼女の首に腕を回し、動きを封じた。
「…っ! 離しなさい! よくもこんな…」
「離さねえぞ…。それに、これを忘れたとは言わせねえ」
リョウマは暴れるヴァルを抑えつけながら、腕の宝石をヴァルの目の前に差し出した。
「俺たちと一緒に冒険していたミーアだ。何度も元気づけられて、助けられて、たまにやかましい時もあったけど、良いやつだったよな。でも俺たちに全部託して、逝っちまったんだ…。その想いを無駄にする気なのか? 思い出してくれよ…! なぁ!!」
リョウマの必死の訴えに、ヴァルの動きが止まった。何かを感じたかのように、一人呟いている。
「ミーア…。託した…。仲間…?」
「そう、そうだよ。思い出してくれたか……!?」
リョウマは腹部に、鈍い痛みを感じた。