アスカとヴァル Ⅰ
明くる日、リョウマはアルバイトがあるからと、早朝から家を出ていた。
「おはようございます。アスカさん」
「おはよ、ヴァル」
アスカは本を読みながら返事をした。お気に入りのファンタジー小説だ。
「あの、リョウマさんは?」
「バイトよ。なんか帰り遅くなるんだって」
リョウマのアルバイトは日払いの一日がかりのものが多い。急に金が必要になった時に困らないためでもあった。
「そうですか。では今日は私もお休みをいただいてますので、お掃除などやっておきますね」
ヴァルはいつでも献身的だ。たとえ自分が疲れていても、家の仕事を優先しようとする。リョウマとアスカは、そんな彼女に無理をさせないように気遣っていた。
「ヴァル、本当にありがたいんだけど、そんなに働きづめじゃ体に毒よ。家のことならあたしたちだってやるんだから」
「いえ、大丈夫ですよ。いつもお世話になっているんですから。あ、そういえば洗剤を切らしていたんでした。お買い物にいかないと」
今自分が置かれている状況を理解しているのかいないのか、ヴァルは普段通りの生活をするつもりだった。アスカはそんな彼女を独りにさせないためにも、こう切り出した。
「んー、だったらさ、今日はあたしに付き合ってもらえない?」
「え?」
「一緒にお買い物に行こうってこと。あとはちょっと寄り道しようかなって。どう?」
「はぁ…いいんですか?」
「勿論よ。遠慮しないの」
それから二人は、少し離れたデパートに来ていた。普段はあまり利用しないところだった。
「あの、こちらですか?」
「そうよ。言ったでしょ?私に付き合ってって。さ、行きましょ」
アスカはヴァルの手を引き、中に入って行った。
大都会でも田舎でもないごく一般的な街のデパートだったが、全て見て廻るには一日以上かかるほどだった。ヴァルはここを利用したことがなく、目に入るものがみんな新鮮だった。
「どう? ヴァル」
「…すごく広いですね。それに人やお店もたくさんで賑やかです」
ヴァルは周りの店舗、上層階、天井に至るまで、初めて連れてこられた幼子のように興味津々に見渡していた。
「ふふ、そりゃ驚くわよね。今まで一緒に来たことなかったもの。ところで、お腹空かない?」
「お腹ですか? 確かにもうお昼ですね。それに朝から何も食べてないですし…」
「じゃあ買い物の前にお昼食べましょ」
そう言うとアスカは、ヴァルをデパート内のレストランまで案内した。
連れて来たのはイタリアンレストラン。アスカの好みでもあった。
「あの、いいんですか?ご馳走になってしまって」
「いいのいいの。あなたも家族みたいなものじゃない。いつも頑張ってくれてるんだからたまには贅沢しなさい。それにここ、そんなに高級でもないんだから気にしないで」
「は、はい。えっと、ではお言葉に甘えて…」
それでもヴァルは、一番安いパスタ料理を注文した。
運ばれてきたパスタを口に運ぶヴァル。たちまち、笑顔がこぼれた。
「お、美味しいですね」
「でしょ? 実はここ、あたしのお気に入りの店なのよ。ウマ兄にも教えてないの」
ウマ兄にも、からの部分は小声でこっそり話した。近くにリョウマがいるはずもないのだが。
「そうなんですか。リョウマさんにも食べさせてあげたいですね」
「ああ、うん…。でもね、こういうのは女だけの秘密にしたいのよね」
ヴァルは純粋な心の持ち主だったが、それゆえ人の複雑な心境などには疎いようだった。
「そ、そうですか。…でも本当、美味しいです。このお料理、隠し味にオレンジピールを使ってるみたいですね」
「そうなの? ちょっとちょうだい。」
アスカはヴァルの料理を引き寄せ、少し匂いを嗅いでから一口食べてみたが、オレンジの味はほとんど感じられなかった。
「うーん、言われてみればそう思わないでもないけど…。なんでわかったの?」
「匂いですね。私、人より鼻がいいみたいなんです」
ヴァルはさらりと言った。通常ならば人より嗅覚が優れている、だけで終わりそうなことだが、ヴァルが異世界から来た一角獣という事実が判明した今となっては話が違った。
「ねえヴァル、あなた脚は速い方?」
「ええと、速い方だと思います。昨日の戦いでも…」
ヴァルは昨日の、蜥蜴男との激闘を説明した。リョウマからかなりのスピードを有している、と評されたことも。
「なるほどね。もしかしたらだけど、あなたは馬の能力も一式持っているのかもしれないわね。馬って鼻がいいって聞いたことあるのよ」
一角獣といえば諸説はあるが、一般的には馬の姿をした幻獣である。ひとつ違う点は、額に長い螺旋状の角があるということであるが、その角は今日はバンダナで隠していた。
アスカはヴァルが一般的な馬の特徴も持ち合わせているのではないかという仮説を立てていた。
「そうなんでしょうか…。すみません、自分のことなのにわからなくて…」
「いいのよ謝らなくて。仕方ないことじゃない。早く食べちゃいましょ」
「はい。いただきます」
「帰ったら色々調べる必要がありそうね…馬のこと、馬にまつわる伝説、幻獣についても」
ヴァルに聞こえない声で、アスカはひとり呟いた。
食事を終えた二人は、買い物を済ませた。休憩がてら、デパート内の休憩スペースで腰を下ろしていた。
アスカは自分のスマートフォンを、ため息をつきながら見ていた。ヴァルは何故かそれが気になり、声をかけた。
「あの、どうかされましたか?」
「…ああごめんね。なんでもないの。ちょっと昔の友達と連絡取り合ってただけだから」
そう言ってアスカは、ヴァルにスマートフォンの画面を見せた。
「これ、SNSっていうの」
「えすえぬえす…ですか。どういったものなんですか?」
「まあ色々あるんだけどね。ひとつはリアルタイムで人とやり取りができるってところかしら」
ヴァルはまた興味津々にスマホを覗いていた。
「へぇ…なんだか楽しそうですね」
「そう?人付き合いって時には面倒なこともあるのよ」
そこまで言うと、アスカは少し寂しそうな顔をしてから、言葉を続けた。
「あたしね、いじめられっ子なのよ」
「えっ?」
「昔の話だけどね。あたしは前から、ありもしない出来事を想像するのが好きで、いつも独りで本を読んだり絵を描いたりする子供だった。でもそういうのを良く思わない連中もいて、よくからかわれたりしたものよ」
その話を聞いたヴァルは、酷く悲しい顔をした。昨日リョウマと歩いていた時にも見せた表情と同じだった。
「それは…大変なんですね」
「まあね。今となっちゃ、いい思い出だけど」
「…昨日の電車内の人たちもそうですが、どうして酷いことをするんでしょう?」
「人間っていうのはね、基本みんな他の人より優位に立ちたい、自分は強いんだ、って思いたい生き物なの。それは仕方ないことだけど、馬鹿な連中はそれが変な方向に行っちゃうのね。他人を陥れて、蹴落としてまでそうありたい、って思うから、酷いことをするのも厭わないんだとあたしは思うのよ」
アスカは醒めた目で、そう言った。しかしヴァルの思い詰めた表情を見て、次の言葉を付け足した。
「勿論、いい人だって世の中にはいるんだから、あまり気にする必要ないわよ」
「…そうですね。お二人はお優しい方なのはよくわかってます」
ヴァルは嘘偽りのない、素直な気持ちを述べた。
「…そうね。ウマ兄は少なくとも悪い人じゃないわね」
アスカは少し間を置き、話そうかどうか迷った様子を見せたが、言葉を続けた。
「そのいじめられた時もね、ウマ兄だけがあたしの支えだったのよ。友達もあんまりいなかったし、父さんはその時家にいたけど、帰りは遅くて話すことも少なかった。ウマ兄は、そんな奴ら気にするな、お前はお前らしくいろって言うだけだったけど、それでも相談に乗ってくれたのは嬉しかった。だからあの人には感謝してんのよ。これでも」
そこまで吐き出すと、アスカはスッキリした、と言わんばかりに伸びをした。
「そうなんですか。やっぱりお二人は素晴らしい兄妹です」
「ありがとね。あ、今の話はあの人には内緒よ」
アスカは人差し指を口の前に当てた。
買い物を済ませた二人は、デパートを出て自宅に向かって歩き出した。自宅までは近道を通っても一キロほど離れており、数十分はかかる。今日は重い買い物袋を下げているため、余計に時間がかかりそうだった。
「もう少しね。大丈夫ヴァル?」
「全然平気ですよ。でもちょっと疲れました」
「そうね。ごめんね付き合わせちゃって。帰ったらゆっくり休みましょう」
しかし、ヴァルの返事はなかった。アスカが不思議に思って彼女を見ると、足を止めて少し離れた先を見ていた。
「どうしたの?」
「アスカさん、気をつけて。あれを見てください」
ヴァルの指指した先には、これまで見たことのない奇妙な生物がいた。だが、それは生物と言えるのかわからない不気味なものであった。
左腕は熊のように太く逞しく、鋭い爪の生えた毛むくじゃらの腕。右腕も太かったが、先端が蛇の頭になっていた。脚は大型の鳥、さながらダチョウのようなものだった。
そして頭があるべきところには、目も鼻も口もない岩のような塊があるだけ。代わりに、身体の中心に、大きな単眼があるのみの、とにかく異様な怪物だった。
その怪物が何者かはヴァルにすらわからなかったが、少なくともリョウマやアスカの世界には存在し得ないものであることは間違いなかった。
「な、何なのあいつ…。あなた、何か知ってるの?」
「いえ私にも…。記憶を取り戻せれば、思い出すかもしれませんが…」
「戦うしかないってことね。どっちにしろ、このままじゃ大騒ぎになりそうだし」
帰り道は人通りの少ない場所でまだ見つかってなかったが、住民に見つかるのは時間の問題だった。
「わかりました。では戦闘の準備を…」
そう言うとヴァルは額に手を置いて集中し、光に包まれた。と同時に、辺りの空気が淀み、人気が感じられなくなった。以前の猫男や蜥蜴男が起こしたものと同じものだった。
「ヴァル、あなたこんな力もあったの?」
既に変身の完了したヴァルにアスカが問いかける。
「はい、この前思い出した記憶の中にありました。これなら周囲を気にすることなく戦えます」
するとこちらに気づいたらしく、怪物が向かって来た。のっしのっしと動くその姿を見るに、かなり動きは鈍いようだが、その能力は未知数であった。
「さあ、いつでも来てください!」
勇ましく槍を構えるヴァル。しかし今回はリョウマがいない。頼る者がいるとすれば、アスカしかいなかった。
「…さて、ウマ兄がいない今、あたしとヴァルだけでどこまでいけるかしら」
ヴァルも同じことを考えているのか、槍を持つ手が僅かに震えていた。