海を越えて
アスカの狼狽する様子を見て、リョウマは不安な気持ちに駆られた。今まで共に過ごしてきて、妹のそんな表情を見たことはほとんど記憶になかったのだ。
「ど、どうしたんだアスカ? そんなに焦って…」
「い、言った通りの意味よ。この人には勝つことはできない。大人しくした方が身のためなのよ…」
リョウマだけではなく、ヴァルとミーアも、アスカのいつもとは違う態度に違和感を抱いていた。
「アスカにしてはずいぶんと自信無さげだね。何かあったの?」
「あの鮫の牙の人について、何かご存知なのですか?」
二人の質問にも、アスカは同じく取り乱して答える。
「面識はない。でもわかるの。あいつの力は計り知れないって。あたしたちには、とても敵わない相手よ!」
後ろで聞いていた鮫男は、アスカが自分に対して恐怖を抱いていることを感じ取り、愉快そうににやついていた。そして、一行に話しかけてきた。
「なんだか知らんが、そこの嬢ちゃんはなかなか見る目がありそうだな。顔も悪くねぇし、俺の女になるんならお前だけは見逃してやっても構わんぞ?」
下品な笑いを浮かべながら、男は言った。リョウマは不安気に成り行きを見守っていたが、アスカは一歩前に出ると、にわかには信じ難いことを口にした。
「本当に? それならもちろん、あなたにつくわ。自分の命には代えられないものね」
アスカ以外の全員、初対面のエイノまでもが、彼女の言葉を疑った。
そのまま男の元へ行こうとするアスカの腕を、リョウマは素早く掴む。
「ちょっと待てアスカ、お前本当に…」
その時アスカの目を見たリョウマは、言い表せない威圧感を感じた。同時に、以前にもどこかで見たことのある目だと思った。記憶を辿ると、元の世界で痴漢を疑われた時に、その場に居合わせたアスカが見せた目だと確信した。リョウマは掴んだ腕を離した。
「アスカさん、待って…」
駆け寄ろうとするヴァルを、リョウマは腕を差し出して制する。
「あいつには何か考えがあるらしい。任せてみよう」
兄たちに見守られながら、アスカは男の近くまで行くと、ややわざとらしい口調で話し始めた。
「あの人たちはもう関係ない。今日からあたしはあなたの物よ。何でも好きにして」
「よし、いいだろう。お前の命は助けてやる。ついでに俺の女にしてやる。ありがたく思えよ」
「嬉しいわ。あなたのような素敵な人と一緒なんて…。よければ、もう一度そのカッコいい牙、見せてくれない?」
アスカの言葉に、気を良くしたのか男は満足そうに大口を開けて見せた。
「いいぜいいぜ。好きなだけ見な! ほれ、すげえだ…」
男の言葉はそこで途切れた。爆発のような光が炸裂したのだ。
身を庇い、おそるおそる顔を上げた五人の前には、男の姿はなくなっていた。
「ふぅ、なんとかなったわね」
涼しい顔で言い放ったアスカ。やはり男に媚びていたのは演技であるようだった。
「お前…何をしたんだ?」
「あいつが大口を開けた時に、あたしの分身を飛び込ませたのよ。いい気味だわ。ああいうムカつく奴の末路にふさわしいと思わない?」
またしても涼しい表情で言ったアスカに、リョウマは若干の恐怖すら感じた。
「…俺、時々お前が恐ろしく思えるよ…。早めに仲直りしといてよかった」
「今さら何よ? 長い付き合いじゃない」
「いやだってお前、あいつのこと殺…」
「してないわ。だってあたし、分身をあいつの口の中か腹の中で暴れさせようとしただけだもの。一寸法師みたいにね。まぁ、爆発させて殺そうと思えばそうできたと思うけど、流石に躊躇するわよ」
アスカの話を聞いたリョウマは、怪訝な表情を浮かべた。ヴァルも言葉の意味を確かめるべく、アスカに尋ねる。
「どういうことですか? あの人はどこへ?」
「みんな見えなかった? あたしが分身を口に飛び込ませた瞬間、衝撃波が飛んで来たのよ。あの、ヤムーで会った死神がいるんだわ。近くに」
その言葉を聞いたリョウマ、ヴァル、そしてミーアは、辺りを見回した。だが誰も、死神の姿を確認することはできなかった。
「マジなのか。あいつ、ここまで追って来てるってことか…」
「そのようね。それにあたし、気になることがひとつあるの。今までの相手は、ヴァルを連れ戻すって言ってた。でもあいつは、死んでもらうって言ってたのよ。一体どういうことかしら…?」
一言も発することなく、考え込む一同。やがて、存在を忘れられかけていたエイノが口を開いた。
「よくわかんないけど、あんたらすげえんだな。おかげで助かったよ。何かお礼しなきゃな…。そうだ、オレここの近くで宿屋やってんだ。よかったら泊まってってくれよ。今日の宿代と飯代は、サービスしとくからさ!」
「いいのか? そこまでしてもらって」
「ああ、命が助かったんだ。安いもんさ」
リョウマたちは顔を見合わせて少し考えたが、お言葉に甘えることにした。一行はエイノの後に続き、彼の宿へと歩き出した。
その道中、ヴァルはふいに頭に痛みを感じた。
「う、痛たっ…」
「大丈夫? もしかして記憶が戻った?」
心配そうに彼女の身を案じたアスカ。ヴァルは久しぶりの感覚に戸惑いつつも、なんとか身体を支えた。
「ええ、大丈夫です…」
「記憶が戻ったんだろう? あいつ、例の水晶を持ってたんだ。で、何を思い出したんだ?」
「ええと、それはですね…」
ヴァルは口ごもった。何かを隠しているかのようだった。
「どしたのヴァルちゃん? まだ痛むの?」
「いえ、何でもありません。行きましょう」
ミーアの心配も受け流し、足早に先へ歩いていってしまった。
「どうしたんだろうな、あいつ」
「さあ。何か話したくない理由があるのかもね。そっとしとくしかないわよ」
モヤモヤした気持ちを抑えて、一行は歩き始めた。
その夜、エイノの宿で食事を済ませた四人は、交代で入浴をしていた。二人しか入れない大きさの浴室だったため、アスカとヴァルが先に、ミーアとリョウマが後に入ることとなった。
順番待ちの二人は、窓際のテーブルで向かい合い、他愛のない話をしていた。
「ずいぶん遠くまで来たって感じだね。今まで遠出することもあったけど、こんな長旅は初めて」
「そうか。俺も初めてだよ。せいぜい旅行することはあっても、二、三日だったからな」
「そうなんだ。わたしと一緒、ね」
「ああ」
会話が途切れ、しばらく沈黙が流れた。そんな中、ミーアは唐突に話題を切り出した。
「ねね、ケオーズ、っていうんだよね。リョウマたちのいる世界って」
「…あー、そうだったな。いや、自分でも知ったの最近だったからなぁ。急に言われてもわからなかった」
ヴァルの故郷で、皇帝から初めて聞かされた自分たちの世界の名前。その呼び名にはまだ馴染みがなかったのだ。
「自分の世界の名前知らないなんて、ちょっと不思議。ま、いいや。そのケオーズでは、人は死んだらどうなるって言われてるの?」
「死んだら? そうだな、色んな考えがあると思うけど、よく言われてるのは、いいことをしたら天国に、悪いことをしたら地獄に行くって話かな。それで、次は別の生き物に生まれ変わるっていう…。ってか、何でそんなことを?」
「別に。ただちょっと気になっただけ。でも本当にわたしの故郷とあんまり変わらないんだなぁ」
「ミーアの世界でも、そんなところなのか?」
ミーアは椅子の背もたれに寄りかかり、上手くバランスを取りながら答えた。
「まあね。わたしらのところでも、人は死んだら生まれ変わるって言われてるの。でも違うのは生き物だけじゃなくて、命のない物にだってなれるっていうことかな」
「好きなものになれる、か。そうだったら次の人生が楽しみかもしれないな」
リョウマが話す間、ミーアは身体を揺らしながら不敵な笑みを浮かべていた。何かを伝えたいように見えた。
「ところで、ミーアは何になりたいんだ?」
質問にミーアは、待ってましたとばかりに楽しげに語り始めた。
「ふふん、聞きたい? わたしはね、石になりたいの」
「い、石?」
予想外の答えに、リョウマは少し拍子抜けした。
「そ、石。といっても、そこら辺の石ころじゃないよ。わたしが言ってるのはあんな風に光るキラキラした石のこと。言うなれば、宝石だね」
ミーアは窓の外の星空を指さして言った。そこには暗闇に散りばめられた星たちが輝きを放っている。
「ああ、宝石のことか。でも何で?」
「宝石ってさ、綺麗だからそこにあるだけで人を楽しませるじゃない。それに、高価な物だから、肌身離さず持ってるでしょ? その人について、色々なところに行けるって、すっごく楽しそうだと思うんだ」
「なるほど。ミーアはドキドキのスリルが楽しみなんだったっけな。納得」
その時、入浴を終えた二人が戻って来た。リョウマとミーアは会話を中断した。
「小さいけど、なかなかいいお湯だったわ。お次、どうぞ」
「よし、行くか」
「うん、わたしも行くー」
「おう…ってお前は違うだろ! 何を言わせるんだ…」
「ちぇ、流れで上手くいくと思ったのに。じゃわたし先入らせてね」
ミーアは強引に、ひとり浴室に向かっていった。
残されたリョウマは、気まずさに外を見ていた。アスカとヴァルも椅子に着き、三人でテーブルを囲む。
「何を話してたの?」
後ろから、兄の背中に尋ねるアスカ。
「大した話はしてないよ。ミーア、石になりたいんだってさ」
「何よそれ。面白いけど」
「ミーアさん、ちょっと不思議な方ですものね」
当の本人は、浴室で気持ちよさそうに鼻歌を歌っていた。
翌日、準備を整えた四人は、エイノに別れを告げて船着き場へと向かった。いよいよ海を渡り、目的の世界へ向かうのだ。
タラップを登り、リョウマ、アスカ、ミーアが乗船したが、ヴァルはなぜか乗らず、黙って三人を見上げていた。不思議に思ったリョウマは、上から声をかける。
「ヴァル? どうしたんだ?」
「あの、私、その…」
ヴァルはもじもじとするばかりで、続きを言わなかった。しびれを切らしたリョウマは一度船を降り、アスカとミーアも後に続いた。
「何かあったのか? 言わなきゃ、わからないぞ?」
「他に誰もいないんだから、大丈夫よ。話して」
「言いにくいことなら、耳元で話してみれば?」
三人に詰め寄られ、ヴァルは思い切って答えた。三人の耳元で、小声で。
「…え?」
「船酔い…」
「体質?」
息の合った調子で復唱する三人。ヴァルは恥ずかしそうに顔に手をやり、うずくまった。
「ああ…みっともないですよね…やっぱり。昔、お父様と船に乗った時のことを思い出したんです。その時は大変でした…」
「いや、それは仕方ないけど、昨日思い出したのってまさか…」
ヴァルは黙って、首を縦に振った。
「誰にも苦手はあるものよ。ウマ兄の言う通り仕方ないことだけど、どうやって海を越えようかしらね…」
アスカは腕組みをして思案を巡らす。しかし、ヴァルはすべきことがわかっていた。彼女にとっての問題は、三人にどう事実を打ち明けるかだけだったようだ。
「心配はいりません。皆さんは船に乗ってください。私は、これで行きます」
そう言うとヴァルは、背中から大きな翼を出現させて羽ばたかせた。
三人を乗せ、船は出航した。やはり他の客はいない。三人以外には乗っているのは操舵士だけだった。ヴァルは同じ速度を保ちつつ、空を飛んでついていく。
「何かと思ったら、船酔いか。もっと大変なことかと思って心配したぜ」
「本人にとっては大事な問題なのよ。でも、欠点の一つもあった方が人間らしくていいじゃない」
「そうだな」
景色を楽しんでいるのも束の間、視界に陸地が見えてきていた。小さくだが、空間の裂け目も確認ができた。
「お、もうそろそろ着くよ。準備しなきゃ」
「よし、おさらいだ。次の目的地は狩猟の世界、『ファングルド』だ。ここで、『チョウガ族の牙』を取ってくる。相手は凶暴な種族らしいから、気をつけて行こう」
「ええ」
「うん」
「はい」
空を飛んでいたヴァルも含め、全員が決意を新たにした。
狩猟の世界、そして、リョウマたちの今後を左右する大きな出来事が、すぐそこまで迫っていた。