迷える小鳥
今回から数話ほど、アスカ視点の回想を書きます。どうぞお付き合いください。
ヴァルの故郷へ向かう馬車の中、ウマ兄はあたしに聞いてきた。目的地まで時間もかかるということもあり、ようやく仲直りできたこのタイミングに聞いておこう、と思ったのだろう。
「なあアスカ、そろそろ話してくれないか? お前が俺たちと別行動してる時のことをさ」
「わかった。話しましょう……」
あたしは、あの日の出来事を思い出した―――。
『何アンタ? 正義の味方気取り? ウケるんだけど』
『そーゆーのいらないから。マジムカつく』
『余計なことしないでよ…。はっきり言って迷惑…』
そんな言葉の数々が頭をよぎる。あたしは家を飛び出して、あてもなく歩いている最中だった。少し離れた公園のベンチに腰掛け、大きく息を吐き出して心を落ち着かせようとした。
昔からそうなのだ。あたしは余計な一言が多い。言わなくてもいいことを口に出してしまう。でも、今回は黙っていられなかった。一人の人間を、あんな風に寄ってたかって虐めているのを見たら、誰だって庇いたくなるのは当然だ。それを実行に移すか否かの問題だけなのだ。
そして…このざま。味方したはずの友達からも裏切られ、見放され、正直なところ心はズタズタだ。つくづく自分が情けなくなる。何のために生きているのか、その意味も見失いかけていた。
公園の反対側のベンチに座って仲良く話していた一組のカップルが立ち上がり、何処かへ歩いていった。何の話をしていたのかわからないが、そんなのあたしには関係ない。
『どうせ腹の中では何を考えているかなんてわかりっこないんだ。仲良くしてても所詮、他人は他人。人間なんてそんなもん…』
そんなことを考えていたあたしの頬を、熱いものが伝った。無意識のうちに涙を流していたらしい。駄目ね。むしゃくしゃしてるからって陰湿になっちゃ。これじゃあいつらと変わらないじゃない…。
帰ろう。ウマ兄やヴァルの待つ我が家へ。でも、あんな書き置きまでしてすぐに帰ったんじゃ、なんだかね…。少しその辺を散歩でもしてからにしようか。
とりあえず涙を拭こうとポケットに手を入れた時、ハンカチがないことに気づいた。あたしはすぐさま身体中を探った。あれはただのハンカチじゃない。死んだお母さんが使っていたらしく、形見としてずっと捨てないで大切にしていた。柄も気に入ってるし、どこに落としたんだろう…。
その時、異様な気配を感じた。ベンチの陰に隠れると、どこからともなく一人の女が現れた。でも、ただの人間ではない。紫の髪とチャイナ服のような外見も異質だが、何より目を引くのは背中から生えているモノだ。蝶または蛾のような大きな翅があった。ヴァルやあの日見た猫男と同じ、獣混人と呼ばれる者なんだろう。
「ふぅ、着いたわ。ここにお尋ねの女の子がいるのね。さっさと仕事終わらせて帰りたいわぁ」
蝶女は独り言を呟き、辺りを見回した。幸いと言えるのか、公園にはあたしとその女以外は誰もおらず、騒ぎにはならなかった。そして、蝶女の視線が地面に移った。
「あら? これは…」
蝶女が拾い上げた物を見たあたしは、思わず声を上げそうになった。それは探していた大切なハンカチだった。あんなところに落としていたのか…。でも、足がすくんで動けない。得体の知れない相手に立ち向かうほど、今のあたしには勇気がなかった。
「…ふーん、こっちの世界にもなかなかいい物があるのね。この模様、気に入ったわ。いただいちゃいましょ♪」
そう言うと女は、翅を羽ばたかせた。
「ちょっ…それあたしの…」
取り返しのつかないことになると思ったら、不思議と声が出た。しかし、それは届くことなく、女は飛び去ってしまった。
今日という日を、あたしはずっと忘れないだろう。嫌な出来事が重なり過ぎて、自暴自棄になりかけていた。そんな時、女が現れた辺りに、陽炎の如く揺らめく何かが見えた。大胆にも近づいて見ると、そこには空間に裂け目があり、覗くと向こう側に見たことのない景色があった。
冷静になって考えてみれば、ヴァルやウマ兄に心配をかけることになると容易に想像できたはずだ。それに怖くなかったと言えば、嘘になる。だが、その時のあたしの心の中では、自制心や恐怖心よりも好奇心が勝っていた。ちょっとだけなら、そう、ちょっとだけ…。すぐに帰ればいいだけの話だ。あたしは、その切れ目に入っていった―――。
後に次元の穴、異世界への入り口などという呼び名があることを知るが、とにかくその裂け目をくぐったあたしは、灰色の空が広がる世界に立っていた。
「ここが異世界…? なんだかあたしの思い描いていたところとはずいぶん違うけど…。まぁいいわ。少し探索してみよ」
引き返すならまだ間に合ったものの、またしてもあたしの好奇心が勝った瞬間だった。
そこは生物が住んでいる気配はなく、生えている草木もほとんど枯れている。冷たい風が吹きつけ、身体を震わせた。もう少し暖かい格好してくればよかったかな…。自分の長袖にショートパンツ姿を見ながらそう思った。
その時、近くの岩場で、何者かが動いたのを見た気がした。おそるおそる近づいて見てみると…。
「…っ! カオス…」
あの怪物がいた。幸い、後ろを向いていてこちらの声にも気づいていない様子だった。あたしはそうっと後退りし、その場を後にしようとした。
「痛っ…何?」
何かに足を取られて転び、声も出してしまった。その声に反応したカオスがこちらに向かってくる。そして、つまづいた何かが地面から這い出てきた。それは、二体目のカオスだった。
「コイツら…、地面から出てくるの!?」
ゆっくりと、確実にあたしの方へ進んでくる化け物に、あたしは完全に腰を抜かしてしまっていた。今はヴァルも、ウマ兄すらもいない。完全に独りだ。やつらに対抗できる手立てがないという現実が、逃げる気力も奪っていた。
「あ……止めて…誰か…」
「グオォ!」
あたしに近い方のカオスが、鋭い爪の生えた毛深い腕を振り上げた。もう駄目だ、そう思ったその時。カオスの腕は何かに弾き飛ばされた。そしてあたしの目の前には、一人の男が立っていた。
「大丈夫か?」
「え、ええ」
男は鎧に身を包み、腰に剣を下げ、額にはヴァルのと同じような角を生やしていた。戸惑うあたしに、男は声をかけてきた。
「…人か? 獣か?」
「…失礼ね。見てわからないの?」
服の埃を払いながら立ち上がったあたしは、見知らぬ相手にも強気で返してしまった。獣か、と言われて気に障ったのかもしれない。
「確かに人か否かは見ればわかる。私が言っているのは獣混じりかどうなのかと言うことだ」
「獣混じり? 獣混人かってこと?」
「ほう、その呼び名を知っているのか。見たことのない身なりゆえ、こちらの常識が通じるかわからなかったが、どうやらその心配はなさそうだ」
会話をするあたしたちの後ろで、カオスたちが再び襲いかかろうと向かって来ていた。男はそれに気づき、剣を構えた。
「悠長に話をしている場合ではないようだな。命が惜しければ、そこから動かないことだ」
男はカオスと戦闘を開始した。あたしはとりあえずは事の成り行きを見守ろうと、少し後ろに下がった。
俊敏な動きでカオスたちを翻弄し、攻撃を避けながら戦う男だったが、決定打を与えるには至らなかった。あたしは男に攻略法を教えることにした。
「ねぇ、ちょっといい?」
「なんだ? 動くなと言ったはずだが?」
「助けてあげようって思ってるのよ。あの怪物、中心にある一つ目が弱点よ。そこを攻めれば一発で倒せる」
男は疑わしそうな目で話を聞いていたが、このままではらちがあかないと感じたのか、再び剣を構えるとカオスの目を狙って突撃していった。
「はあぁっ!!」
目にも留まらない速さで急所に一撃を受けたカオスたちは、地に倒れると活動を休止した。
「…なるほど、お前の話は誠だったようだな。助かった。礼を言う」
「どういたしまして。それよりあなた、もしかして…」
そこまで言いかけたあたしの目の前、男の後ろで、一体のカオスの腕が動いた。蛇の頭の形をした腕から、ヴァルも食らった毒液が噴射される。あたしが危ない避けてと言う前に、男は毒液をもろに浴びてしまった。
「くっ、まだ息があったか」
だが男は怯むことなく、剣をカオスに突き刺し、完全に息の根を止めた。あたしが見ている前で、毒液は男の身体からみるみるうちに消えていった。
「大丈夫なの? それかなりの猛毒なんじゃないの?」
「ああ。我々一族は毒に対して特別な強さを持っていてな。この程度なら何の問題もない」
それを聞いたあたしは確信を得て、さっき言いかけたことを聞いた。
「ねぇ、あなた家族に一角獣の女の子はいない? ヴァルっていう」
男の目の色が変わった。あたしの肩を掴み、問いただした。
「そなた、今ヴァルと言ったか? 知っているのか? 私の妹を!?」
「え、ええ。三年くらい、あたしの家で暮らしてるわよ。…ちょっと落ち着いて。ちゃんと話すから」
「ああ…すまぬ。取り乱してしまった」
あたしは男に、簡単に三年前から今に至るまでの出来事を説明した。ヴァルがボロボロの状態で家の前に倒れていたこと、彼女の記憶がないことも、最近になって謎の刺客に襲われて、戦ったら記憶が戻り始めたことも全て。
男はあたしの話を聞いた後に、自分のことを語り始めた。ヴァルとは正真正銘の血の繋がった兄妹だということ、一角獣の兄妹が一緒にいると世界が滅ぶという伝説があって、子供の頃に離ればなれにされたこと、そしてヴァルと自分は皇族で、ヴァルは時期皇帝になる予定だということを。
全ての話を聞いた後は、お互いに信じがたいことばかりでしばらく何も言えなかった。何か話を繋げようと、あたしから切り出した。
「できるなら、あなたとヴァルをすぐに会わせてあげたいんだけどね。ここからあたしの世界に行けないの?」
「難しいかもしれぬな。この世界は虚無の世界『ヤムー』。あまり人が足を踏み入れない世界ゆえに、知っている者も少ない。便宜上、そう呼んでいるに過ぎないのだが、この世界の入り口は開く時間も場所も定まっておらず、いつどこに通じるかわからないのだ」
やっぱりか。ここに来てからなんとなくそんな気はしていた。最初の場所の辺りに、元の世界に通じる裂け目が見当たらなかったのだ。軽はずみに来るんじゃなかった。あたしは激しく後悔した。
「大丈夫か? 気をしっかり持て」
気落ちするあたしを、男は心配してくれた。ヴァルの兄ということもあり、あたしは彼を悪い人ではないと思えたのだった。
「ええ…大丈夫よ。でも元の世界に帰りたい。いえ、元の世界じゃなくてもいい。二人のところに帰れるなら」
「…そうか。なら私について来るといい。あの怪物の倒し方を教えてくれたこと、そしてヴァルを今日まで守ってくれたことの礼だ。ヴァルと出会うまで、そなたのことを全力で守ろう」
男は片膝をついて頭を下げた。何かを誓うかのような姿勢だった。あたしは少し大袈裟に感じたが、ありがたく好意を受けとることにした。
「ありがとう。よろしくお願いするわ。そういえばまだ自己紹介してなかったわね。あたしは神宮寺アスカ。アスカと呼んで」
「アスカか。しっかり覚えておこう。私はエクス・モノケロース・ラートルという。エクスでいい」
それからあたしとエクスは、二人でヤムーを歩き、ようやく異世界への入り口を見つけることができた。
「エクス、この先はどこに繋がっているの?」
「私にもわからぬ。だが先ほども言った通り、そなたの身は全力で守る。怖いか、アスカ?」
「全然大丈夫よ。あたし、自分の世界の外を冒険するの、ずっと夢見てたんだから」
あたしたちは、その入り口をくぐり、別の世界へと向かった。