忘却の迷い子
京極かずらと申します。初めてファンタジーを書きました。お手柔らかにお願いいたします。
とある雨の日、神宮寺リョウマの家の前に一人の少女が倒れていた。服がボロボロの半裸状態であることを除けば普通の人間となんら変わらなかったが、ただひとつ、普通の人間にはないものがあった。その少女の額には......確かに小さな一本の角があったのだ。
リョウマはとある私立大学に通う三年生である。学力も運動神経も常人よりは秀でており、大抵のことはそつなくできた。彼の母親は小さい頃に死去したと聞かされていて、父親は単身赴任で遠い場所で働いていた。そのため、家のことは父親の仕送りに加え、リョウマは学習塾やスポーツコーチのアルバイトなどで生計をたてていた。そして、今は大学の帰りである。
「ただいま、ヴァル」
「お帰りなさい、リョウマさん」
ヴァルと呼ばれ返事をしたのが、あの雨の日、リョウマの家の前で行き倒れていた少女である。ヴァルと言う名は彼女自身が答えたものであるが、彼女はそれ以外の記憶をすべて失っていたのであった。端から見れば普通のカップル、もしくは家族にすら見えるかもしれない。しかしヴァルは紛れもなく正体不明の少女であった。見た目は高校生くらいで、髪は見事な銀色をしており、瞳は澄んだ蒼だったが、顔は日本人と変わらないものだった。もっとも、彼女の場合、国の違いなど関係ないのかもしれない。なにしろ、普通の人間にはないものがあったのだから。
「今日はどうでした?」
「ああ、特に何もなかった。平和だったよ」
「それは何よりです」
「それより、お前はどうなんだ?記憶、何か思い出せたか?」
「…いえ、それがまだ、何も」
彼女を家に住まわせてから約三年、記憶を取り戻すために色々な方法を試してはみたが、成果は伴わなかった。しかしヴァルは物覚えが非常によく、教えられたことはすぐに覚えて忘れない頭脳の持ち主でもあった。そのため、一般常識から生活に役立つ知識、小中学校で習うことなどは一通り教えてきた。ここでリョウマの、学習塾でのアルバイト経験が活きてくることとなった。
「そっか。まあ焦らなくていいよ。早く記憶取り戻したいとは思うけどさ」
「はい、ありがとうございます」
ところで、ヴァルに物事を教えていたのはリョウマだけではない。この家にはもう一人、住人がいた。
「ただいま、ヴァル、ウマ兄」
「お帰り、アスカ」
「お帰りなさい。お疲れ様です」
彼女は神宮司アスカ。リョウマの実の妹である。リョウマとはひとつしか歳が違わないためか、ほとんど対等に話す間柄だった。アスカはいつの頃からかあまり感情を表に出すことのない性格をしていたが、顔立ちは整っていた。そのため、周囲からはクールビューティーと異名をつけられることもあった。大学はリョウマと同じところに入学しており、同じくその帰りであった。
「はぁ、疲れたわね。ちょっと寝ようかしら。ヴァル、先お風呂入っていいわよ」
「はい、ではお言葉に甘えて。お先にいただいちゃいますね」
「おう、入っちゃえ入っちゃえ」
ヴァルが風呂に行った後、リョウマとアスカは彼女についての話を始めた。
「ヴァル、今日も記憶戻らなかったのね?」
「ああ、変わりなし、だ」
「そう…。あれからもう三年よね。どうしたら思い出せるのかしら」
「…無理に思い出させる必要もないんじゃないか?」
「どうしてよ?」
「わかんないけど、嫌な記憶だってあるかもしれないし。思い出さなきゃよかった、ってこともあるかもだろ?」
リョウマはアスカと違い、ヴァルの記憶を取り戻すことにはそれほど積極的ではなかった。というよりも、アスカが積極的すぎるところもあった。普段はクールな彼女であるが、実はかなりのファンタジーや神話などのマニアでもあり、大学ではそういったものを研究するサークルに所属するほどであった。そういうこともあり、ヴァルの非現実的な雰囲気にリョウマ以上の関心を寄せていた。記憶を取り戻し、どんな話が聞けるか楽しみにしていたのだ。
「ま、あたしもあの子に無理はさせたくないし、気長に待つとするわ」
「だな。俺も気を遣わせないようにしないと」
ヴァルにとって、拾われたのが神宮司兄妹だったことは不幸中の幸いだったのかもしれない。もしも悪人の家の前に倒れていたとしたら、今頃どうなっていただろうか。二人とも聖人とは言えなくとも、心根は優しい人間だった。そうでなければ、見ず知らずの少女を家に置いたりしないだろう。ヴァルもそんな二人と暮らしているからなのか、あるいは元からなのか、非常に優しく献身的な性格をしていた。
その翌日は休日であった。なので、朝から三人は家で暇をもて余していた。そんな中、リョウマがひとつの提案をした。
「なあ、今日の昼飯、みんなでどこか行かね?」
「お昼ご飯、ですか?」
「どうしたの急に」
三人で食事に出かけることはこれまでほとんどなかったためか、アスカとヴァルは不思議な顔をしていた。
「いや、別に理由はないけど、たまにはいいかなってさ。今までこういうことなかったろ?でも嫌なら止めとくよ」
「いえ、私、行きたいです。アスカさんは…?」
「ヴァルが行くなら。あと、ウマ兄の奢りならいいわよ」
「おまっ…まあいいや、行こうぜ。あ、ヴァル、アレ忘れんなよ」
三人は身支度をし、外食に出かけた。外は快晴で、お出かけ日和という言葉がよく当てはまるようだった。
「良いお天気ですね。洗濯物がよく乾きそうです」
「そうだな。なんか悩みとか、どうでもよくなっちまいそうだぜ」
「ウマ兄って単純よね。あたしはそんな気分になれないわ」
「…悪かったな。そういえば二人とも、何食べたいんだ?」
「私は、お二人の判断にお任せします」
「判断って、そんな大袈裟なもんじゃないのよ。というかウマ兄、どこ行くかなんてだいたい決まってるんでしょ?」
幼い頃からこの街に住んでいた神宮司一家にとっては、家の周辺は庭のようなものだった。その中でも、近所の定食屋は父ともよく訪れた場所であり、店主とも顔馴染みの関係だった。
「まあ、あそこだよな。安いし、二人分奢らなきゃいけないしな…」
リョウマはそうこぼしたが、後半はヴァルとアスカに聞こえないようにぶつぶつと呟いた。ふと、ヴァルの方を見ると、歩道橋を登ろうとしている老婆のところへ駆け寄っていた。老婆は重そうな荷物を抱えていた。
「お婆さん、大丈夫ですか?お荷物持ちますよ」
「まあ、ありがとうねお嬢ちゃん。いつもいつも世話になって」
「いいんですよ。気にしないでください」
ヴァルは荷物を持って歩道橋を一緒に渡りきった。リョウマとアスカはその後をただついていった。
「本当にありがとうねぇ」
「いいんですってば」
「あら、お嬢ちゃんまだおでこ怪我してるの? お医者さん行かなくて大丈夫?」
老婆はヴァルの額の絆創膏を見て、心配そうに聞いてきた。先刻、リョウマが忘れるなと言ったのはこのことだ。ヴァルの額の角は小さなものだったが、隠しきれるものでもなかったため、外出時などにはバンダナを巻くか、今回のように絆創膏を貼るなどしてごまかしていた。
「え、ええ。大丈夫ですよ。ちょっとぶつけちゃっただけなので。ご心配ありがとうございます」
「そう。身体は大事にね」
そう言い残し、老婆はその場を立ち去った。その姿が遠くなってから、リョウマとアスカはヴァルに話しかけた。
「偉いわねヴァル」
「いえ、困ってる人がいたら助けてあげるのは当然ですから」
「でもなかなかできないことよ。自然にそういうことができるのは素晴らしいことじゃない」
「そんな…褒められるようなことは…」
ヴァルは照れ臭そうに頬を赤らめた。
「うん、確かにいいことだけど。でもヴァル、あの婆ちゃんのこと、前も助けたのか? いつもありがとうとか、まだ怪我してるの、とか言われてたけど」
「はい。何回かお会いしてますよ」
「そうか、まあ、駄目だとは言わないけど、あんまり深く接しない方がいいと思うぞ」
「どうしてですか?」
ヴァルはリョウマに、理解できないと言わんばかりの表情を向けた。
「いや何というか、その額のやつ見られたらマズいかなと思うしさ」
「そんなこと言って、本当は違うんじゃないの? 例えば断られたら傷つく、だから自分から行かない方がいい、とか思ってたりして」
アスカの言葉に、リョウマは内心ドキッとした。心の奥底にそんな気持ちがあったことは自覚していたのだった。
「な、何で分かるんだよ」
「それは兄妹だもん。分かるわよ」
兄妹二人の会話に入れず、ヴァルはソワソワとしていた。と、そこに、一人の軽そうな男が近づいてきた。
「すんませーん、ちょっとお尋ねしたいんすけど」
三人ともその男の方を見たが、すぐにその異様さに気づいた。
耳が生えている。それも人間のものではなく、頭の上に猫のような大きな耳がついていたのだ。着ている服も、どこかの民族が着ているような変わった衣装だった。
「…ちょっと待ってくださいね。なあ、あれ何? コスプレ?」
「さあ…この辺でそんなイベントやってたかしら…?」
「お、お二人ともそんなひそひそ話なんて失礼ですよ」
男の方も、三人の反応に気づいたのか、自分の耳を撫でてはぁっとため息をつき、独り言を呟いた。
「あー、やっぱ目立つかコレ。どうにかして隠しとくんだったなあ」
「あの、どうかされましたか?」
ヴァルが優しく声をかけると、猫男の視線がヴァルの額に注がれた。そしてニヤリと口元を緩ませた。
「いーえ何でもないっすよ。でもね、あんたに用があるんだな」
「え? 私に?」
困惑するヴァルの目の前で、猫男は懐から、鋭いナイフを取り出した。そして、その切っ先をヴァルに向けた。
「ひゃっ…」
「お、おい、あいつ…」
「ヴァル…」
三人は、急な状況に戸惑い、恐怖で動けなくなった。猫男は言葉を続けた。
「あんたには恨みとかないんだけどね、わけあって一緒に来てもらわなきゃいけないんすよ。言うこと聞いてくれれば、悪いようにしないから」
「わ、私は…」
「…ちょっと待てよ」
リョウマはヴァルと猫男の間に割って入っていた。理由はわからないが、ヴァルを行かせてはならない、この男の言う通りにしてはいけないと感じていた。
「何すか?」
「こいつが嫌がってんだろ。止めろって言ってるんだ」
相手が凶器を持っていることもあり、恐怖は未だに取れなかったが、それよりも別の感情が身体を動かしているようだった。
「リョウマさん…」
「ウマ兄…」
二人は心配そうに、リョウマと猫男を交互に見ていた。猫男は、面倒臭そうにもう一度懐から何かを取り出し、頭上に掲げた。それは宝石のようなものであり、首飾りの紐で繋がれていた。宝石が光を放つと辺り一帯が不思議な空間に包まれた。快晴であったはずの空は曇り空のような灰色になり、どんよりとした空気になった。周りの木々や建造物はそのままであるが、人の気配は感じられなくなった。
「邪魔が入るかもしれないと言われたけど、その通りだったな。これで騒ぎにならなくて済むからな。やりやすいぜ。」
「な、何のことだ?」
「悪いけど、邪魔するなら死んでもらいます。あんたにも恨みはないんだけどね」
猫男は、ナイフをリョウマに向けて突き出してきた。リョウマはなんとか、その一撃をかわした。しかし、恐怖で足がすくんでいたので、殺られるのは時間の問題でもあった。
「くそっ…。こんなところで死ぬのか俺…」
「どうした? 次は外さないっすよ?」
命の危機を感じ、半ば諦めかけたその時、二人の間に割って入った者がいた。ヴァルである。同じく恐怖に怯えていたが、勇気を振り絞って立ち向かったのだった。
「…止めてください。私が言うこと聞けばいいんでしょう?」
「ヴァル…」
「話分かるじゃん。じゃあ行きましょ」
「…はい」
「あ、待ってね。その前に…」
猫男は一旦背を向けたが、すぐさま振り返って素早くナイフを振るった。不意をつかれ、リョウマは二の腕に傷を負った。
「うぐっ…」
「リョウマさん!」
「ウマ兄…ちょっと、しっかりして」
「大丈夫だ。大したことない…」
確かに傷は浅かったが、シャツは血に染まりつつあった。猫男の方を見ると、ニヤニヤと笑いを浮かべていた。
「いや、こうする必要なかったんすけどね。何か俺に逆らったのが気にくわなくて」
その言葉を聞いた時、ヴァルの心の中の何かに火が着いた。この人たちを護らなくては。そんな想いが彼女を動かしたのかもしれなかった。ヴァルは猫男を睨むと、はっきりとした口調で言葉を発した。
「リョウマさんとアスカさんに、これ以上手は出させません」
「何?」
そう言った後、ヴァルが光に包まれた。その場にいた全員が、眩しさに目を閉じた。そして目を開けた時、目の前にいたのは全く違う姿をしたヴァルだった。
彼女の身体の至るところが頑丈そうな鎧に覆われていた。しかし腿や肩の辺りなどところどころ肌が露出しており、動きづらさはなさそうだった。手には身の丈ほどある槍を持ち、先端は螺旋状になっている。頭には兜などは着けてないが、鉢金と呼ばれるものに似た防具を着けていた。そして額の角は長くなり、どうやら鉢金に開いた隙間から伸びていたようだった。
「ヴァル…お前…」
「これはどういうことなの…?」
突然の展開の連続に、兄妹は戸惑っていたが、これで助かったとも思えた。リョウマはヴァルに、全てを託すように話しかけた。
「よくわかんないけど…ヴァル、頼む。やってやれ」
しかし、ヴァルは動かなかった。槍を構えたまま、立ちすくんでいる。
「…? どうした?」
「ヴァル…大丈夫?」
兄妹が心配そうに声をかけると、ヴァルは二人の方を振り返り、困ったように口を開いた。
「あの、どうやればいいんでしょう…?」