落っこちました
「どうしてあいつはあんなんになってしまったんだろうか……」
人間の年齢で言えば二十後半くらい、魔女のように派手な格好をした女神様は考えます。
広々とした草原のど真ん中。穏やかな風に長髪を棚引かせながら、人間離れした美貌の女性が憂いげに頬に手を当てる姿は、まさに絵画の一枚の様でした。
「やはりこの前、ドラゴンの巣に放り込んだのがまずかったか? いや、それとも天界で神獣と――」
ただし、脳内ではなかなかの地獄絵図が展開されています。
最強のスライムを育てようと思い立ち、百年以上を掛けてそれをほぼ達成した女神様でしたが、肝心のスライムはエンシェントドラゴンすら倒す力を得た代わり、育ての親である女神様の言うことをちっとも聞かなくなってしまいました。
「ううむ、これが人間でいうところの反抗期というものなのか」
そろそろ知り合いの戦神にでもぶつけてみようかと思っていたのに、今のままでは思った通りに事が運ばない可能性が高いです。女神様は頭を悩ませます。
力尽くで言うことを聞かせることは可能でしたが、スライムの方もすっかりタフになり、そう簡単にはいかなくなっています。まともにやり合えば、大陸の一つ二つが世界地図から消えてなくなりかねません。
「成長が嬉しくもあり寂しくもある。ふふ……なるほど、これが母親というものか」
誰も突っ込む人がいないので、女神様は勝手に納得していきます。
「そうだ、母親といえば以前こんなものを貰ったな」
神友の一人から貰った人間の雑誌を取り出しました。表紙にはでかでかとした字で『デキる子供の調教――げふんげふん育て方』とあります。印刷し直すお金すらなかった事が窺えました。
毒々しいキノコより百倍怪しげなその雑誌を、女神様は「ふんふん」と頷きながら大真面目に読み込んでいきます。
「よしっ」
全て読み終えた直後、女神様は何かを得心したように勢いよく本を閉じ、とても良い笑顔で言いました。
「かわいい子は千尋の谷へ突き落として旅をさせるべし!」
誰も突っ込む人はいませんでした。
「――というわけでお前、ちょっと付いてこい」
「それを聞いて素直に付いていくヤツがいるとでも思ってんのかあっ!?」
大雑把な経緯を聞いたスライムはうがあっと吠えました。
当然の反応です。これからお前を谷に突き落としてどこぞの僻地へ放置するぞと言われて怒らない人はいません。
でも女神様は不思議そうに首を傾げていました。
「何故そんなに怒る? 以前大気圏から地上まで垂直落下させてやった事もあるだろう。いまさら断崖絶壁程度準備運動のようなものだろうに」
「まずふつーの生き物は大気圏から落とされて生きてられませんがねぇ!」
「はっはっはっバカな事を。お前は生きているじゃないか」
「ばっらばらに飛び散った破片を6年掛かりで再生させてなんとかなあ!? つか前から思ってたんだけどどうしてオレはこんなに長生きできるんだ? アンタ何かやっただろっ」
「うん、不老の魔法使った。老衰なんぞで死なれても困るし」
「うわあああああああああん! 輪廻の輪から人の生を弄んでくるこの人ぉぉぉぉぉっ!」
「心配するな。死なないのは老衰だけだから、再生もできないほどぐちゃぐちゃにされたり燃やし尽くされたりしたら死ぬって」
「オレは普通に寿命で死にてぇって言ってるんだよっ!!」
それを聞いた女神様は、やたら優しげな手付きでスライム頭に手を置いて、言いました。
「人生諦めが肝心」
「こんのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっ!!!」
とうとうスライムはキレました。
地面が陥没する勢いで女神様に飛び掛かります。
「えいっ」
「うぼぁっ!?」
しかしそれを予想していた女神様の反応が一歩早く、スライムは平手打ちで地面に叩き落とされました。衝撃で土煙が舞い上がり、ちょっとしたクレーターができました。
「ぬおおおおまだじゃあああああああああああああああああああああああ!!」
スライムが土煙を突き破って飛び出しました。
全身泥まみれになっていますが、さほどのダメージはないようでした。
女神様は鼻を鳴らします。ついでに肩も鳴らします。
「ふん、まー頑丈になったものだな」
「お・か・げ・さ・ま・で・なあっ!」
スライムがギリギリと歯を食いしばって睨み付けてくるのに、女神様はやれやれと面倒臭そうに手を振って応えました。
「さっきはああ言ったがな、早とちりするな。別にお前を断崖絶壁に突き落とそうとはしていない」
「信じられっかっ」
「だってもう大して面白く――ごほん! 大して得られるものもなさそうだしな」
「おい、今面白くないって言い掛け――」
「とにかく今回は多少趣向を変えようと思っている」
「趣向だぁ~~?」
スライムは身を以て知っていました。こういう時の女神様はろくでもない事しか言い出さないと。
やっぱり逃げた方が良さそうだと、じりじり距離を遠ざけていたところ……
「お前には、ちょっと人間界に落ちてもらおうと思っている」
予想外の言葉に、ぴたりと動きを止めました。
「……人間界?」
「そうだ」
「お肉とかお魚とかお野菜とかがおいしい、あの人間界?」
「そうだ」
「ふ、ふーん……ま、まあべっつに人間界になんて興味ないけどー? 女神様がそう言うんじゃしかたないかなー?」
「…………」
女神様は疑惑の視線をスライムに向けましたが、すぐにまあいいかと話を戻す事にしました。
眉間に皺を寄せ続けるのは美貌の維持に良くないと知っていたからです。
「そこで3年ほど自力で生活してもらう。必要なモノは全て自分で調達しろ、私は一切手を出さない」
「サー! イエス、マム!」
落ち着き無くふにょんふにょうんと体を揺らすスライムの、やたらとやる気に満ち溢れた返事に、女神様も呆れ顔です。
とにかく本人の承諾は得たので、気の変わらない内に、事前に準備していた魔方陣まで連れて行き転送開始です。
「うへへへへ待ってろよご馳走達ぃぃぃ、今オレ様が平らげに行ってやるからなぁぁぁ……!」
もはや欲望を隠そうともせずに魔方陣の上で涎を垂らすスライムの姿に、女神様はこのままではいけないと頭痛を覚えました。
そしてこっそりと、魔方陣に一文を付け足しておきました。
調子に乗っているスライムは、それに全く気が付きません。
「さあマイマザー! 早く魔方陣の起動を!」
「ああ、いいとも」
スライムからは見えない角度で怪しい笑みを浮かべ、女神様は魔方陣を起動しました。
スライムはかつて見たこともないほど朗らかな笑みで言います。
「じゃー行ってきまーす!」
「行ってらっしゃーい!」
それに応じた女神様の表情も、かつて誰にも見せたことがない無邪気なものでした。腹の底に抱えたものが黒いほど、表には純白なものが貼り付けられるようです。
――こうしてスライムは、人間界へと降りたつ事となったのでした。