信じない。
好きだ好きだ好きだ好きだと何回も言ったけれど、彼女はちっとも返してくれない。「ふぅん、そうなの」と目も合わさずに言うだけで。 だから、それは、初めてだった。
初めてで、そして、最後だった。
「あなたのことは、好き」彼女は僕にそう言った。卒業式の日、校舎の裏で。
好きって言った。好きって言われた。僕の心臓は跳び跳ねて口から出てきそうだ。
どっくんどっくん、その音が。あんまりにも大きすぎて。
僕には、続く「だけど」が聞こえなかった。
抱き締めた腕の中で、彼女は「ああもう」と体を捩る。「 好きだけど、そういうのじゃない」
そういうのじゃないって、どういうの?そもそもそういうのってどういうの?
身を離されてぽかんと聞き返した僕に、彼女は「ああもう」と繰り返す。
「そういうのがどういうのかは分からないけど」彼女は、鼻に皺を寄せる。
「たぶん、あなたの『好き』も、そういうのじゃないわよ」
さっぱり、意味が分からない。
桜舞うあの日の横顔をきれいだと思った。なれない酒に酔いつぶれた無防備な寝顔がたまらなく可愛かった。成人式の振袖姿に思わず失神しそうになった。
いつも不機嫌そうにしているくせに、たまに不意打ちで微笑まれると、『グフゥ』と腹の底から妙な呻き声がでる。
「あなたは、私の顔が好きなだけなのよ」
笑いながら彼女は言うけど、その笑顔はいつもどこか寂しげで。
「確かに、君の顔は好きだと思うけど、それだけじゃないと思う…」 僕は、おずおずと反論してみたけれど、その間も形を変える眉毛や目との間とか、突きだしたりへの字にしたりする口元とかほんの少しの変化なんかから目を離せないままでいて。
「それだけじゃないと、思う。本当に…」
繰り返してみたけれど、それは、随分と弱々しい響きをもった。
随分と、時間が経った。 そんなにしかめっ面ばっかりしてるからやっぱりな、そんな位置に、最初の皺が出来た。眉毛と眉毛の間に、切れ目を入れたようにくっきりと走る二本の線。
「あーあ」と言ってそこを指先でなぞれば、あなたこそ、と、目尻の皺をなぞり返される。
次に、口の横。そして、目の下。
僕は、出会った頃にはつるんとしてそこを踏めば滑り転んでしまいそうだったかつての彼女の肌を思い出す。頬の高い位置に浮かんだ染みは、波乗りにのめり込んでいた時代のこれでもかと言わんばかりの日焼けの影響なのだろう。
茶色かったり黒かったり短かったり長かったり変化を繰り返していた髪も、いつしか白く落ち着いて、僕たちは、赤のちゃんちゃんこを着て互いの還暦を祝いあった。
それでも僕は、相も変わらず「好きだ好きだ」と言い続けていて、彼女はいつの頃からか、「顔だけでしょ」とは言わなくなった。
ただ、僕のその言葉を聞いて、微かな、けれど穏やかな笑みを、口元に浮かべるだけになっていた。
ある日、好きだと言ってみたら、「あなたは、私の顔が好きなだけなのよ」何十年も前の通りの口調で返された。
あれ?と思ったけれど特に気にしないでいたら、その日から段々と、彼女が出会ったばかりの頃の彼女でいる時間が増えてきて、ある日、あまりの快晴に海に呼ばれた気でもしたのか、何十年もオブジェと化していたサーフボードを持ち上げようとして下敷きになり、そのまま寝たきりの状態になった。
彼女の目には、僕は、時折二十の青年に、概ねしわしわのじいさんに見えるらしい。
動けなくなって、どんどん縮んでいく彼女に、僕は聞いた。
「好きだけど、なんだったの?君は、結局僕のことをどう思っていたの?」
彼女は、くぼんだ目で僕を見て言った。
「好きだけど、怖い」
だって私、ひねくれてるし性格悪いし。あなた、私の顔だけが好きなんだから、年とって崩れちゃったら、私を置いて、きっとどっかに行っちゃうわよ。
僕は、笑った。ようやく、わらった。「大丈夫だよ」僕は言った。
「君がしわしわのばあさんになっても、僕は、側にいるよ」
だって、好きだから。
彼女は、自分の顔を枯れ枝のような指でぺたぺたと触って、「ああ、本当だ」と、心から嬉しそうにくしゃくしゃになって笑って、
「あなたのことが、好きよ」
と、そう言った。
その言葉が、初めてで、最後だった。
疑り深くて、それでもさみしがり屋の僕の想いびとの、それが最後の言葉だった。