84話目
母さんがこの部屋にくるなんて、珍しい。口には出さずそう考える。
「どうしたの?」
扉を開けずに、聞く。そういえば、若杉由布は母親についてあまり触れない。だから、どんな反応をすればいいのか、俺にはよくわからない。これで、あっているのだろうか。
「ううん、大したことじゃないんだけど……ちょっと、出てきてもらっていいかしら」
え、と俺は戸惑う。武谷の方を見ると、くい、とアゴを動かされる。それから、しっしっと手を振った。
「行って来いよ。俺は気にしないし、ここで待ってるから」
「う、うん……」
なんだか見捨てられた子犬のような気分になりながらも、俺はドアを開ける。母さんが立っていた。ごく普通の顔である。
よく考えてみると、この人もよくわからない。俺の母さんのはずだけど、恵登や裕美にはどうやって接しているんだろう。夢の中でのことが思い返される。……あまりいい人には、見えなかった。けれども。由布に掛けてくれた優しい言葉とかはきっと、嘘ではない。
だから、俺はこの人がよく分からない。
「由布、あなたってば友達いたのねえ。さっさと紹介してくれれば良かったのに」
さっそく、近所のおばさんのノリでかわいらしく、母さんはにこにこと笑った。俺も、無理やり笑顔を作り、あはは、と笑う。それを見て、母さんがにこっと笑った。
「ちゃんと笑えるのねえ。あんまり、笑わなかったから。友達ができて、安心したわ」
「……う、ん」
若杉由布は、この人の前でどのくらい笑っていないのだろう。それを感じさせる短い台詞だった。
「そ、それで。何の用?」
「ああ、大したことじゃないわ。ただ、お菓子食べるかなって。持ってきたのよ。武谷くん、甘いものとかって大丈夫かしら?」
「あ、ええと……た、多分」
知らなかったが、もし武谷が無理なら、俺が二人分食べよう。そう思い、適当に答える。甘いものは、好きだ。
「そう、ならこれを……」
後ろにあったお盆を渡される。ケーキの乗ったお皿が二枚と、紅茶の入ったポット、そしてお洒落なティーカップが乗っていた。
「……!?」
ケーキ、だと……!? てか、こんなお洒落な……!? 友達の家に遊びに行ってケーキ出されるなんて、そんなのドラマの中の出来事かと思っていた……。
若杉由布、お前いったいどこのお坊ちゃんだよ。ここ、大金持ちの家かよ。
渡されたお盆を前に茫然としていると、母さんは少し首を傾げた。
「あら……嫌いだったかしら」
「へ? いや、そんなことないけど……」
寧ろ、大好物だ。おいしいし、嬉しいし。
でも、ケーキ嫌いか―、なんて、ちょっとおかしい気がする。だって、普通知ってるだろ。家族なら。若杉由布は、もしかしてそんなコミュニケーションまでとってないのか? というか、こうやっておやつにケーキを出すのが稀なのか。それはそれで、おかしな話だけど。
「なーんてな」
まあ、俺の考えすぎだろう。家族のことをたくさん考えていたから、なんでもかんでも疑わしく思えてしまうのだ。大したことじゃなくても、目くじらを立てるのは良くない。
「……どうかした? 由布」
「ううん、なんでも」
「そう、なら私はこれで。それにしても、由布が友達を招くなんて、ねえ……」
母さんはもう一度確認するように言って、にこっと笑った。そして去っていく。
「……」
俺もちょっとだけ笑って、部屋に戻った。




