119話目
我が家に着くまでの階段が長い。そうだ、毎回ひいひい言いながら登ってたっけ。道の横には、謎の、猫のような置物が置かれている。そういえば、と俺は思い出した。小さい頃、この置物の表情が怖かった。だから、ここをダッシュで駆け抜けていたっけ。家までの道には、思い出の欠片が落ちていた。その度、その時の感情を、ついさっきあったことのように思い出せた。
懐かしい。ほんとうにここは、故郷なんだ。
運動不足の若杉由布の体にとっては、階段はほんとうに辛かった。地獄とも思える時間が終わると、俺は足を止めた。
ほぼ、思い描いていた通りの家が、そこにあった。いや、少し寂れただろうか。でも、ほとんど変わりなく、家はそこにあった。胸が締め付けられるような思いに駆られた。
すっかり息は整ったけど、俺はまだ、玄関のベルを押せずにいた。理由は簡単、怖いのだ。「あなた、誰?」なんていう、当然のことを両親の口から聞くのが――――怖いのだ。
なんていえばいいんだろう。俺と若杉由布の関係なんて、うまく説明できるものじゃない。いや、説明できたとしても、信じてもらえないだろう、ふつう。
家の前でうろうろと彷徨う。はたから見れば、完全な不審者だ。
「……ねえ、あなた」
「は、はいぃ!」
いきなり声が掛かり、びくっとする。おそるおそる振り返って……ひゅっと、息を呑んだ。
「ここらじゃ、見かけない人だけど……この家に、何か用?」
あ、懐かしい。隣の家の人だ。少し皺が増えたようにも見えるが、あまり見た目は、変わっていない。……大した時間も経っていないだろうし、当然か。母かと思って、少し緊張していたけど……違った。そのことに、安心しつつ、がっかりもしていた。
「あー……えっと、はい。あの、この家の……田代さんに、用が、あって」
たどたどしく、言葉を選びつつ言う。自分の苗字をさん付けで呼ぶのは、なんだか違和感があった。にしても、自分の名前を久々に耳にした。変な感覚だ。自分のものなのに、こんなにも長く聞いていなかった。 何と言ったら不審に思われないのか、よくわからなかったから、こんな言い方になってしまった。案の定怪しげにこちらを見ているが、子供という見た目のせいか、そこまで不審に思われてはいないようだ。
「……田代さんに? あなたみたいな子供が、なんで……」
「え、ええと……あの、その、僕……この家の……田代晃さんと…………知り合い、で」
……というか俺が田代晃なんだけど。
「……そう、晃くんの……」
おばさんは、辛そうに目を伏せた。その様子を見て、あ、と俺は察する。死んだことになってるんだもんな。不用意に、名前を出すべきじゃなかったかな。
「でも、田代さんに会いたいのなら、残念だったわね」
「え?」
「引っ越したのよ。今は、晃くんとの思い出が詰まったこの家が、辛すぎるって……。でも、家は残っているから……いつかは、戻ってくるみたいだけど」
「えっ」
一瞬、声が出なかった。でも同時に、安心していた。会えなくてよかったと、そう思っている自分がいた。怖かったから、会うのが。
「……そうですか。すみません、ありがとうございます」
「引っ越し先の住所も、聞いてないのよ……ごめんなさいね、力になれなくて」
「いえ、大丈夫です」
おばさんは会釈して、去っていった。俺はもう一度懐かしい家を見上げて……そこを、去った。家主がいない家に、意味なんてないだろう。会えない存在なんだから。でも、俺の心はどこか、寂しさを感じていた。




