114話目
それからまたいつくかの日記を書き、数日が経った。結局若杉由宇の誤解は解けなかった……が。今日は、出発の日である。母親には話した、と若杉由宇は言っていた。それは本当のようで、大きな荷物を持って下に降りて行っても、母親は特に驚いた様子も見せなかった。
「あら、行くの」
「……うん」
「友達のところに遊びに行くんだってね。迷惑は、掛けないようにね。あと、それから……」
母親が注意事項をつらつらと言っていて、俺は途中までうんうんとうなずいていた。
アレが現れるまでは。
「……どこかへ、行くのか。由布」
部屋の奥から、ぬっと大きな影が出てくる。久々に見る顔だった。体が強張るのがわかる。手が震えて、自分でもその人物を恐れているのが分かった。
俺はゆっくりと、自分の中で恐怖を消化するみたいに、その人物を呼んだ。
「……とう、さん」
「ずいぶん、大きな荷物だな」
「あなた。あのね、由布は友達の家に……」
「由布に聞いているんだ。口を挟まないでくれ」
「……」
母さんは少し寂しそうな顔をした。……やっぱり、気に食わない奴だ。父親という人物は。だいぶ傷は癒えたが、前酔っぱらった時に殴られた傷が、痛んだ気がした。若杉由布は、こいつに殴られたことが何度もあるのだ。それだけで、許せないと思う。
「……別に。母さんの言った通り、友達のところに遊びに行くだけだよ」
「お前が、友達?」
驚きと共に、そこには嘲笑が含まれている気がした。お前に友達なんている訳がないだろう、と。馬鹿にするなよ、武谷がいる。……相手がどう思ってるかはわからないけど。
「うん、友達さ。しばらく帰ってこないから。じゃあ」
そういって、玄関の扉に手を掛ける。
「待て」
ぴたりと、手を止めた。父親はこちらを睨んでいた。
「なぜもっと早くに言わない」
「母さんには言った」
「じゃあなぜ、お前は俺に言わない」
「あなた、昨日はずいぶん疲れていたみたいだったから。家に帰ってきて、すぐ寝ちゃったでしょう。わざわざ言うこともないかな、って思って」
「……」
明らかに不機嫌そうなのが、伝わってくる。嫌な感じだ、と俺は思った。背負ったリュックの紐を、ぎゅっと握りしめる。手が汗ばんでいた。
「……誰の家だ」
無表情で、父親が言う。下手な言葉を返せばきっと暴力を振るわれるのだろうと思った。けど、どうしても口が止まらなくて、俺はこう言っていた。
「……なんでお前に言う必要があるんだよ」
本音だった。けど、ここで言うべきじゃなかった。
気付くと俺は頬を思い切りぶたれていた。玄関のドアに背中が当たる。じんじんと、ぶたれたところが熱を帯びる。痛い、と思うよりも先に、俺はドアを開け放ち、外へ飛び出した。あとからあとから、痛みと、悔しさが襲ってくる。泣いてしまいそうだった。情けない。後ろから誰かが追いかけてくる様子は、なかった。




