103話目
目が、覚めた。
……。
手首の傷を確認する。なかった。
そして、理解する。ああ、これは、夢だ。
白い霧のかかったような気分だ。頭の中が、ぼんやりしている。自分自身で体を動かすことは、できそうになかった。
そう思っているうちに、右手が勝手に動く。少しぎょっとして――――気付いた。やけに、ぷにっとした手。子供のものだ。念のため言っておくが、俺の手はこんなにぷにぷにしていない。ならば―――若杉、由宇のもの、か? いや、これは夢なんだ。なら、自分の手かも……それともまさか、子供になる夢? ばかげてるな。
そうしたうちに勝手に足が動き、少しずつ頭も回るようになって、ようやく自分の状況を理解した。
自由に動かせない手足。(勝手に動かされる) 子供の体。
これは過去だ。俺は、若杉由布の過去を――――『体験』している。文字通り。
追体験とかいう奴だろうか。不思議と動揺はしなかった。
年齢は……多分、前見たときと同じくらい。つまり、恵登と裕美がいちゃこいてた……この言い方は正しいかどうかわかんないけど! その頃だ、多分。もう、両親に関係はばれてるんだろうか。
若杉由布の目には、見慣れた光景……つまり、俺の部屋が写っている。玩具が転がっていたり、今より人間味がある。なんだか変な気分だ、慣れた部屋の主が違うだけで、こんなに違和感を覚えるとは……。いや、主は同じなんだけれども。時期が、違うだけだ。
しっかし、若杉由布も昔はこんなに普通の部屋を使ってた、のか……。
……。
なにが、あったんだろう。
最近色々あって、忘れかけていた好奇心がむくむくと頭をもたげる。若杉由布の家庭環境、まだ全部分かったわけじゃないんだ。ただ、兄と姉が付き合ってて、それが両親にばれて、それで今姉とは別居中……? ってことくらいしか、分かってないんだから。まあ、大体筋は通るけどさ。細かい点……たとえば、裕美が俺に学校にくるな、と言ったこととか。理由のわからない言動は、けっこうあるだろう、うん。とかおもってるうちに、『俺』が立ち上がる。俺、まあ、若杉由布だ。体を勝手に動かされているようで、なんだか不思議な感覚だ。
俺は立ち上がると、机の引き出しを開けた。確か……カッターや、ナイフの入っていた……あ、と思う。違った。そこには、俺たちが使っている日記帳が入っていたのだ。
「……」
俺は少しの間日記帳を抱えて、黙っていた。けれど、ようやく覚悟を決めたように、表紙を開く。ぱらぱらとページを捲る。大したことのない日常が綴られている。子供の字だ。こんなに小さい頃から、しっかり書いていたらしい。すごいなあ、と思う。
丁寧な字で書いてあったのに、最近に近づくにつれ、文字が乱れてきた。なんだか暗い印象さえ受ける。そのきっかけのページを開いた。『……姉ちゃんと、兄ちゃんが、家を出て行った。なんでなのか、わかんない。母さんも父さんに二人のこと聞いても、答えてくれない。たまにこっちをにらんでくるんだ。わかんない、どうすればいいのか』
ちょっと前に見た、あの夢からしばらく経ったくらいの時期らしい。
それに、しても……。
「知らされて、ないのか……」
家を出て行った、という事実を知っていても、姉と兄がキスしてたと知っていても、まるで蚊帳の外にいるみたいに感じる。そのうえ、睨むだって? 全く、親はなんて奴なんだろう。若杉由布がかわいそうだと感じる。知らされる権利という奴はどこにいったのか。違憲で逮捕されちまうぜ。
俺は少しの間ペンを弄んだあと、震える手で文字を書きはじめた。自分の手から自分のものと違う文字が生み出されていくのは、なかなか不思議な感覚だった。けれど、よく考えてみれば、もう自分の筆跡など思い出せないのである。そういえば若杉由布の体に入ってから、自分の筆跡は変わった。要は、若杉由布の筆跡に統一されたのである。あまり、気分の良い話ではない。筆跡を思い出せもしないからいいといえばいいのだけど、だけれども。まるでほんとうに俺が若杉由布になってしまったようである。まさか、なあ。
『日記のしまっている位置が違う。まさか』
ここまで書いて、文字が酷く震えた。
『まさか、誰か、見てるんじゃないか。俺の日記を、覗き見ているんじゃないか』
ひどく重たいものを手放すように、ペンを置く。日記も投げるように放り出した。
一瞬、俺に言われているんじゃないかと思った。けれど、この時期の若杉由布は、当然俺のことなんか知らない。
だから、誰か、ほんとうに。いるのだ、きっと。若杉由布の日記を盗み見るような、趣味の悪い奴が。いったい誰だかは分からないけど。それにどんな意味があるのかも。だって、日記には当たり障りのない日常しか綴られていない。でも、なぜ……。




