Mermaid Syndrome
「金魚」をテーマとした作品。
2013/8に日本橋にて開催されたアートアクリアウムの思い出に寄せて。
「ところで、デビット。今、私の左手に何があるか分かる?」
右手の電話に話しながら、ルーシーはカードキーを受け取り、フロント係にウィンクをした。
「さあ、なんだろうね。新しい指輪かい?」
「いいえ、金魚よ」
「金魚?」
「そう。今夜、地域のお祭りがあってね。子供向けゲームのプライズなの」
云いながら、ルーシーはカードキーとビニール袋を持ち上げ、金色に輝く小さなウロコを見つめた。そうしてエレベーターを逃しそうになり、慌てて飛び乗った。
「君、まさか、縁日に行ったのかい?」
再び耳に宛てた通話口から、デビットの驚いたとも呆れたともつかない声が零れた。ルーシーは眉をしかめる。話の本質はそんなところではない。
「悪いかしら? だってせっかく日本に来たのだもの。異国の文化に親しむのは価値のあることじゃなくて?」
広いエレベーターの壁にもたれながら、ルーシーは云う。
「しかし……。まあいい。ほどほどにね」
長年の付き合いというだけあり、デビットは時間をおかずに納得した。
「大丈夫。分かっているわ。だからこの後の花火は部屋から見るのよ。高い部屋を取ってもらったから、よく視える事でしょう……」
そう云っている間に、エレベーターはぐんぐんと上昇し、街の煌めきが眼下に遠ざかった。
「それじゃあ、2日後、僕がそっちに行くまで楽しんで」
「待って。それで金魚の件なのだけど。あなた、育て方は分かる?」
「ええ? 僕は金魚なんて育てたことがないな」
「そう……」
「あとでジェームスに聞いてやるよ。あいつアクアリウムをやっているから。でも、とりあえず水は早めに交換した方が良いんじゃないかな」
「助かるわ。うん、応急処置的なことは、もうちゃんと手配したわよ」
「へ?」
「最近のネット通販はすごく便利よ。あっという間に届いちゃうんだから」
ルーシーは絨毯の廊下を歩き出す。ルーシーの部屋の前には、ちょうど宅配業者が荷物を持ってきたところだった。
「君、本当に、”少女”だね」
「切るわ。おやすみ」
「おやすみ」
ルーシーが電話を切ると、運送業者が話しかけてきた。
「へ、ヘロー。ええと、いやー、こちらでよろしかったでしょうか?」
「ありがとう」
ルーシーは流暢な日本語で対応し、金魚と飼育セットを携えて部屋に戻った。
花火が打ち上がるまで、まだ少し時間がある。ルーシーは金魚をビニールからタンブラーに一旦移し、作業に取り掛かった。次々と梱包を解き、段ボールを放り出す。物の少ないスイートは、役目を終えたゴミたちをより無機質なものにした。
作業と云っても、シャワールームで新品の金魚鉢を洗い、水質調整剤を水に溶かしたくらいのものだ。ポンプは、金魚鉢には取り付けにくく、斜めになってしまったが、それでもなんとか動作を確認できた。
「さあ、おいで、おチビちゃん。狭かったでしょう」
タンブラーを傾けると、4匹の金魚が我先にと金魚鉢に飛び込んでいった。水草は買わなかったが、彼らの緋色と、金魚鉢の淵を彩る青いビードロだけあれば、いかにも美しかった。
ルーシーは満足げに微笑み、今度は『金魚のえさ』なる粉末を一つまみ、水面に落とした。粉末は泡に翻弄され、金魚鉢の端に滞留した。金魚は代わる代わる水面に浮上し、無表情にえさを啄んだ。
「さて。私もくつろぎますか」
ルーシーは云い聞かせるようにそう口に出すと、空間を横切って冷蔵庫からワインを取り出した。
何気なく視線を彷徨わせると、窓の外では、花火が音も無く打ち上がっていた。
室内灯を消し、立ったままグラスを傾けるルーシー。
「遠いわね」
呟く。
ポンプの動作音が静寂を支配する。
ふと、今、自分は淋しいのだろうか、とルーシーは考える。が、すぐにそんな考えを打ち消そうとする。今は魚たちがいる。
グラスを置き、スマートフォンで金魚について調べた。
金魚は、観賞用に交配を重ねた魚だということが分かった。もっとも、縁日の金魚は規格外の安物だが。観賞用という言葉が、ルーシーの胸中に自虐的なシンパシーをもたらした。
今度は金魚すくいの光景を思い出した。破れても何度も追いかけてくるポイ。泳ぎ疲れ、遂にすくわれる金魚。
「私も泳ぎ疲れて、捕まってしまいたいわね」
誰も聴いていないのを良いことに、ルーシーは一人皮肉を吐いた。
けれど立ち止まるわけにはいかなかった。走り続けるのが人生だと、ルーシーの父が云っていた。それでも、泳ぎつづけた金魚たちは、結局何処にたどり着くのだろうとルーシーは考えた。少し豪華な、大きな水槽。そこではあらゆる原色の煌めきが泳ぐ。その中の名も無い一匹……。
(ジェームスの家の水槽なんて、ちょっと御免だわ)
ルーシーは自嘲気味に笑った。
そして突き離すようにスマートフォンを投げ出すと、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。
ブウゥン……。
浅い眠りの淵、ポンプの音が聴こえる。ルーシーは暗い水底から、ホテルの天井を見上げていた。尾ひれとも、赤いカーテンとも判別不能な曲面が、青い瞳の上をゆらめきゆく。
満ちていく、明晰夢の世界。
(溺れてしまう!)
唐突に、ルーシーはそう思い、眼を開いた。
「……ん」
じっとり湿ったブロンドの髪を指で梳かしながら、ルーシーは起き上がり、周囲を見渡した。スマートフォンへの着信は無い。液晶に照らし出される時刻は午前二時。金魚たちは平然と泳いでいた。
(旅慣れているつもりでいたけれど、どうも寝苦しいわね……。やはりポンプの低周波が良くないのかしら)
かといって、ポンプの電源を切るわけにはいかなかった。切れば金魚たちは酸欠になってしまうだろう。
再び睡魔がやってきた。ルーシーはエアコンの設定を調整し、服を脱いで、再び眠りの海に落ちて行った。
今度は深い夢を視た。
少女の頃の夢だった。
と云っても、少女の姿をしたもう一人のルーシーを、現代のルーシーが観客として眺めているというものだった。
少女ルーシーは浴衣を着ていて、先ほどルーシーが視てきた縁日の中にいた。日本の景色が、これほど鮮明に記憶に刻まれたことに、ルーシーは我ながらに驚いた。さらにルーシーを驚かせたのは、次の瞬間であった。
(ああ、嘘)
ルーシーは思わず口元を押さえる。
赤毛の少年が、紺色の浴衣を着て少女ルーシーの隣にやってきたのだった。彼はルーシーの初恋の人だった。
(まあ……。彼……。もう名前を忘れてしまったわ……。今頃、どうしているかしら)
少年と少女は、躊躇いもせずに手を繋いだ。親しげにいくつか言葉を交わした後、彼らは駆け出していく。屋台の灯りが照らし出す一筋の道を。
「ねえ、待って」
ルーシーは呟いた。しかしその言葉は、音に結ばれず、ぶくぶくと水泡になって空に上昇していった。
(え、私、魚になっている……?)
ルーシーは足元を見つめる。視界がゆがみ、ワンピースの裾がゆったりと揺らめいていた。
(まあ、夢の中ですものね)
なんだって起こりうる。ルーシーは愉しい気持ちになってきて、そっと地面を離れた。重力から切り離されて浮かび上がる四肢。水との界面は滲んで視えない。
少年と少女は花火を見るためにスポットを探しているようだった。
(……ま、これ以上ついて行っては野暮ね)
無邪気さを見送って、ルーシーは小さな泡のため息を吐き出した。
高く、高く。祭りの空を泳ぎだす。
じきに花火が打ちだされ、眼前でドロップのような光が弾けた。愉快な夢だとルーシーは思った。そして、次第に笑いが込み上げてきた。
ルーシーは華麗に弾幕をかわしながら、空を泳ぎ続けた。流体は涼しく、心地良かった。
翌日。デビットはうだるような熱気の包むカフェテラスで、一人狼狽していた。
「駄目だ。まいったな。全然出ない……」
デビットが繰り返しコールするスマートフォンは、金魚鉢の中に沈んでいた。防水仕様のため壊れてはいかなかったが、電池残量は残りわずかになっており、もうじき動かなくなると思われた。
そんなものには目もくれず、十の瞳が、優雅に周遊していた。
END
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