まだ、犬も喰わない。
そうしてあっという間に一週間が経った。
――ケンカしたのが先週の水曜日でしょ。週末は男子部は出稽古に出てたから別行動だったし……明日で丸一週間かぁ。こんなに要と話をしないのも初めてだな。
怒りは二日も持たず、沙織に愚痴をこぼした数時間後にはもうすっかり機嫌は治っていた。後は要が謝ってきたら許して、もう二度としないように約束させよう、そんな風にいつも通りに仲直りできると思っていた。だけどこの時になって初めて菜乃は気がついた――要が一度も謝って来ない事に。
それどころか初日以来自分に話しかけようともしない。ただ隠しきれない苛立ちを周囲に撒き散らすだけだった。この件に関してはどう見ても要に非がある。よほどの事が無い限り要から折れるべきなのに。
――『よぽどの事』があったって……こと?あの人と?
それ以来、別の意味で要の目を見ることが恐くなった。同じ教室で、武道場で。すぐ向かいの部屋で寝起きをしながら……菜乃と一度も目線を合わせようともせずに。
じっと前を向いたまま、要は一体何を考えているのだろう。
――あーあ、とーとー部活サボっちゃった。
相変わらず一人で帰る帰り道。ついにこの日は部活をサボってしまった。菜乃の心は乱れに乱れ、とてもじゃないが精神統一には程遠い。今日は要も委員会でほとんど部活に顔を出せないだろうからバレなくて丁度いい。
今の菜乃の頭の中は、無言を貫く彼の真意を予想することで一杯だった。そうして一人考え込む内容に良いことなど一つも無く。生まれてからずっとそばにいた大事な人が、遂に自分から離れてしまうかもしれない恐怖が頭から離れない。
あまりにぼうっとしていたからか、ホームの柱から急に出てきた影に思いっきりぶつかってしまった。
「うわっ!すいません!」
「……いえ、こちらこそ」
「大丈夫……えっ?あっ、君……」
ぶつかったのは、同じ駅を使用する近所の男子校の生徒で。菜乃は彼の顔にとても見覚えがあった。
「こないだの……人、ですよね」
噂をすれば。あれ以来一度も顔を見ることのなかった人なのに、よりによってこのタイミングで再会するなんて。菜乃はあまりの都合の良さに、鬱鬱と考え込んでいたことも忘れ思わず笑ってしまった。
「先日は本当に失礼な事をして本当に申し訳ありませんでした」
「いや、そんな丁寧に謝らないで!…手紙、読んで貰えた……かな?」
「あっ……それが、その…取り上げられて…」
「……そっか。何かごめんね、波風立ててしまったみたいで。彼氏にも随分威嚇されたよ」
「…ごめんなさいっ過保護で!本当に失礼なことを」
菜乃は羞恥で首まで真っ赤になった。些細な喧嘩に親が乱入してきて問答無用で相手をぶったぎられた子供の気分だ。ひたすら恥ずかしいし情けない。
「嫌、そりゃあ彼女が別の男に言い寄られたら怒るでしょ。普通だよ」
「…そうですか?」
「君だって逆なら嫌でしょ?」
「…ええ」
菜乃は酷く素直な気持ちで頷く事が出来た。彼が二人の事を何も知らないから…ただのカップルでいられる。
いつもならば…例えば菜乃と要をよく知る身近な人達が相手ならば出せない気持ち。要が色んな人にモテるのは今更なこと、それにいちいち反応してはいけない、だって要は菜乃だけのものじゃないから――。
そう、確かにあの時……向かい合わせで話す二人に黒い感情で腹の中が一杯になった。小さな頃から何度も感じたよく覚えのあるもの。要と一緒にいることを否定され、だけど要以外の人とも共存するために必死で蓋をしたもの。
あの頃本当は要をもっと独占したかった。だけど菜乃じゃ釣り合わないと言われ傷付き離れ。なのに周りの子たちをものともせず、空いた距離を要から埋めてくれた――だからこそ菜乃は楽になれたんだ。
辛いと逃げただけの菜乃に自ら歩みより、今まで泥を被ってくれていた要。今までずっとそうして菜乃の事を大事にしてくれた。菜乃は真綿のような温もりにただくるまれていれば良かった。今回のはちょっと違うかもしれない。だけど結局、要にそれを強いたのは菜乃だ。
――私がいつまでもしっかりしないから未だに要にこんな事をさせているんだ。
菜乃はその事実に愕然とした。
菜乃は走った。走って走って、一目散に来た道を駆け戻った。この時間ならばまだ要は校内にいるはず、ただ早く逢いたい一身で帰宅途中の友人達とすれ違うのも構わずにただ、走り抜けた。
もう遅いかもしれない。今更、と呆れた声で別れを告げられるかもしれない。ここのところ毎日考えていた不安が湧き上がる。だけど、それでも――――。
彼から改めて告白され、きちんとお断りをした。ふんぎりが着いたと笑う彼に申し訳なさと感謝を感じ笑顔で別れた。
要以外で初めて菜乃に想いを抱いてくれた人。同じ気持ちを返せないのが心苦しいが、少しだけ自信を菜乃にくれた。どうか、勝手だけど幸せになって欲しい。
「――要っ!」
――いた。
放課後、人も疎らな校内でそれほど探し回る事なく廊下を一人歩いていた要を見つけることが出来た。
「菜乃。お前…先帰ったんじゃ……」
「あっ、うん、そうなんだけど」
勢い勇んでここまで来たが何と切り出せばいいものか。今まで避け続けて来たのは菜乃の方だ。取り敢えず謝って……。
「ごめん」
しかし先に謝罪をしたのは要の方だった。
「あ………。」
「知り合いの先輩だったから行った。お前にあれだけ文句言ったのに、すまない。謝る」
そんなに素直に謝られると何て返せばいいものやらさっぱりわからなくなる。菜乃は要から目線を反らして俯いた。
――えっと、まずは無視したこと謝って、そんでもう大丈夫ってことと、彼にも自分で断れたってこと。そして、あの人の、こと。
「まだ怒ってるか?」
「えっ、ううん!全然っ!」
思考を遮断され軽くパニックになる菜乃。仲直りの仕方を知らない訳じゃないがこれはいわゆる痴話喧嘩。こんな会話を二人がしていることが改めて恥ずかしくなってきて俯いたまま顔をあげられずにいた。
一方要の方はもっと切実だった。久し振りに話す菜乃はもう怒りが消えているようで安堵するも、やはり怒っていた内容は嫉妬ではなくて不公平とか理不尽だとかそういうことだったらしい。少し期待していただけに落胆を禁じ得ない。
自分はあんなにも嫉妬に狂ってしまうのに――
――――そうして。
「あの……本当に大丈夫だよ?私だってあの人とちゃんと話出来たし……それで要に言わなきゃいけないって気がついて……今まで、私の事で沢山煩わせて本当にごめんね?私、要に甘え過ぎてたってやっと気がついたの……だから、もうこれからは一人でもきちんと出来るから!」
歯車は噛み合わない――互いの思いとは裏腹に。
「……どういう意味だ」
要の地を這うような暗い声が廊下に響いた。
一瞬で場の空気が変わる。
――要が……本気で怒った?私に対して……。
共に過ごした中で、要の逆鱗に触れた人間を何度か目にした。怒りの矛先に向ける酷く暗く射殺すような視線。武道の中で放つ集中した覇気とは一線を画するそれに、対象でない菜乃ですら背筋を凍らせる思いを味わった。
それが…その目が今生まれて初めて自分に向けられている。恐怖に菜乃は思わず一歩後ろに後ずさった。
「っ……」
「来い」
要は開いた距離を訳も無く埋め、菜乃の細い手首を強く掴みそのまま強引に何処かへ引っ張って行く。
「いっ!痛い!要!何処行くの?離して……」
「煩い。黙ってついてこい」
連れ込まれた何かの準備室、棚と棚の間にある狭い壁に背中を押しつけられて身動きが取れない。足の間に膝を割り入れられ、それに注意がそれたのを見計らって両腕を顔の真横に張り付けられた。見上げた先で要と……目が、合った。
「かな…んっ……んんっ!」
名を呼ぶ暇なく唇に噛み付かれた。僅かな隙間から無理やり舌を割り込まれ容赦なく歯列を舌を弄られる。今までの甘やかな雰囲気の中でする優しいキスとは全く違う、ただ一方的に貪られる激しい口付け。
どうして?何で怒ってるの?何で怒ってるのにキスなんかするの……
要が何を考えているのかさっぱり分からない。緊張のあまり息をするのも忘れ頭がぼうっとしてきた。
次第にキスはその様相を変え、甘く優しくねっとりと官能を帯び、ピチャピチャと水音が室内に響いた。
「……んんっ……ぅ」
足が砕ける。もうまともに立っていられない。ずるずると壁沿いに崩れ落ちるも途中で要の足に支えられた。要はその両手首だけを頭の上でひとまとめにしながらしつこく唇を離そうとはせず、菜乃の身は完全に要に支配されていた。
「んっ!んぁっ……ぅ」
不意に与えられた刺激に声を我慢する事が出来なかった。今まで少なからず行われた恋人同士の甘い触れ合いは確実に菜乃の体に変化をもたらしていて、僅かな刺激を訳も無く拾ってしまう。漏れた矯声はお互いの中に飲み込まれ消えていった。意識をはっきりさせれば嫌でも分かる、要の手がどこを触っているのかなど。
――ここ!学校!
「……んー!んー!んんんっーー!!」
唇は塞がれたまま言葉は意味をなさず、腕も肩も固定され体を捻る事さえ叶わない。
菜乃が言いたい事は伝わっているはず、だが要はそれを無視し刺激を与える手を止める事は一切しなかった。素肌に直接空気を感じた時にあまりの羞恥に菜乃の中で何かが壊れた。
ガリッ
「いっ!…つっ………」
「…はっ…ぁ……。」
力が入らない体に活を入れ要を振り払った。
「もうやだっ!要のばかっ!!」
――やっちまった
口の中で血の味が広がる。明確な拒絶の証、こんな僅かな痛みで解放してやれたのはまだ理性が残っていたからかそれとも――。一人室内に立ちつくす要に扉の方から声が掛けられた。
「仲直りのキスにしてはちょーっとやりすぎだったんじゃない?」
「……菜乃は?」
「近藤さんが追いかけてった」
良かった、彼女が一緒ならばとりあえず安心だ。艶を纏わせた菜乃を誰かに見られるかもしれない、自業自得とはいえ想像するだけで苛立ちが募る。
「余裕ないねぇ」
「煩い、出場亀」
「ひっど!言っとくけど俺らが先客だったんだからな。気ぃ使って黙って出ていってやったんだから感謝しろ。割り込もうとする近藤さんを抑えるのに結構苦労したんだぞ」
「……どさくさにまぎれて手出してる奴に言われたくない」
「えっ?何で分かったの?」
やっぱりな。こいつがそんないい機会を逃す訳が無い。
「切羽詰まってんのはお互い様だろ……」
「あーあ、そうだよねぇ。なーんで逃げられるかなぁ。こんなに好きなのにねぇ?」
好きだから何をしてもいい訳じゃない。嫌だから逃げだすんだろ……出てくる軽口は全て自分に返ってくる物ばかりで本当にうんざりする。
「あっ、近藤さんから伝言。『潰す』だって」
「………………。」
友人思いの彼女なら間違いなくする。因果応報、自業自得――




