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翠先生

「笹岡、初夜勤お疲れ、帰っていいぞ」

 採血のアシストを終えた俺に、主任が言った。

 日勤の看護師に引き継いでいると、不意に背後のベビーたちが騒がしくなった。

『翠先生だ!』

『翠先生どうしたの?』

『私に会いに来たの?』

『オムツ替えてくれるの?』

 ああ、いつぞやにべろんべろんに酔っぱらっていた翠先生だ。

「あ、いたいた!」

 俺と目があった瞬間笑顔で駆け寄ってきた翠先生。

 いやぁ、あの時のべろんべろんだったとは思えないほど爽やかな笑顔ですね、先生。

「夜勤明け?」

 翠先生が、俺を覗き込んで聞いてきた。

「はい」

 この前見たときは、肩にのしかかられていたし、あまりにもべろんべろんでよくわからなかったけれど、翠先生は人懐っこそうな可愛らしい顔つきをしている。

「今、ちょっと時間ある?」


 そして今、俺は翠先生に連れられて、産婦人科病棟にいる。

「みど……じゃなくて谷岡先生、お仕事はいいんですか?」

「だって、病棟当番だもん!」

 だもん、って先生、俺より年上ですよね?

 翠先生と俺は産婦人科病棟を突き進み、新生児室へとやってきた。

 確かに、ここは産婦人科病棟内だから仕事していることになる……のか?

『ママ、どこ?』

『翠先生だ!』

『翠先生だ!』

『翠先生、それ、ダレ?』

『カレシ?』

『弟?』

『お兄ちゃん?』

『お父さん?』

『お母さん?』

『おじいちゃん!』

 お兄ちゃんまでは許してやろう。

 さすがは新生児室。

 元気な『声』と、泣き声のコラボレーションで、うるさいことこの上ない。


「ねぇ」

 翠先生の声がして、そちらを見ると、すごく近くに翠先生の顔があった。

 心臓によくないです、先生。

 翠先生は顔を近づけたまま、囁くように言った。

「この間の話って本当?」

 この間の話?


『ラブラブだぞ』

『ラブラブだな』

『R‐18指定ってやつか?』

『十八歳未満はダメなのか?』

『じゃあ、俺ら全員ダメじゃん!』

『違うよ、十八週未満がダメなんだよ!』

『何だよ、俺ら全員OKじゃん!』

 目の前でうるさすぎる奴らと、近すぎる翠先生によって思考が遮られていたため、少し時間がかかったが、俺はようやく思い出した。

「この間って、翠先生がべろんべ……」

 不意に口を塞がれた。

「その時の状況は、今、関係ないでしょ!」

 翠先生、近すぎです!

 でも、目が怖いです!

 それにしても、あれだけ酔っぱらっていたのに、よく覚えているもんだな。

 変なところに感心していると、翠先生が、さっきの距離感のままで聞いてきた。

「で、どうなの?」

 その目はすごく真剣だ。


 『声』が、本当に聞こえるのか。

 そんなことをこんなに真剣に質問されたのは、生まれて初めてだった。

 自分で隠していたこともあるけれども、普通はそんな得体のしれない現象、信じてくれないからだ。

 翠先生は、『声』の存在を信じてくれるだろうか?

 俺は翠先生を信じて、真実を話すべきだろうか?

 信じてほしいけれども、信じてもらえるはずがない。

 真実を話したところで、からかわれていた時に、傷つくのは自分だけだ。

「谷岡先生が、思っている通りだと思います」

 俺は先生の目を見つめ返した。

 思いたいように思えばいい。

 信じてくれたって信じてくれなくたって、俺は構わない。


 少しの間押し黙っていた翠先生が、口を開いた。

「じゃあ、私の希望的観測の通りってことね」

 希望的観測?

「じゃあ笹岡君、そこの子、何言ってるか、教えて?」

「『声』ですか?」

「もちろん」

 俺は少し困惑した。

 翠先生は、本当に『声』が聞こえるのかどうかを確かめ始めたのだ。


 ひとしきり、ベビーたちの『声』と胎児の『声』を翻訳させた翠先生は、一人で頷いた。

 そして、ナースステーションに一声かけると、外へ出て行った。

 ……先生、仕事は?


 病院の中庭のベンチに腰かけた翠先生は、

「笹岡君、奢ってあげるからコーヒー買ってきて」と、小悪魔的な微笑みで言った。

 夜勤明けの俺をパシリにする気ですか?先生!とは思ったものの、その微笑みにあっさりと負けた俺は、自販機へと走って行った。

 コーヒーを二つ手に持って振り返ると、翠先生は何だか考え込んでいるようだった。

「先生?」

「あ、ありがと」

 何だか気のない返事だ。

 そこに突っ立っているのも何だかおかしいので、俺は先生の隣に腰かけた。


 そこには何故だか気まずい沈黙が流れた。

 この光景、傍から見たら気まずいカップルに見えかねない!

「あの、さ」

 沈黙を破ったのは翠先生だった。

 俺に小悪魔的な微笑みをしたあの人物と同一人物とは思えないほど、今の翠先生はしおらしい。

 先生が手に持っている紙コップの中のコーヒーが揺れている。

「笹岡君って、NICUで働いてるよね?」

「はい」

「じゃあもちろん、荘ちゃん、中山荘太君、知ってるよね」

「はい、もちろん」

「笹岡君から見て荘ちゃんは、どんな子?」

 確か、翠先生は、荘太の母親の主治医だ。

 だから、NICUでの荘太の様子が気になったのだろう。

「態度はでかいけど」

 先生がコーヒーを吹き出しそうになった。

 でも、事実です。

「仲間思いだし、リーダーシップもある、良い奴ですよ」

 今朝の採血阻止作戦も、荘太が言い出したようだった。

 深夜のショックが抜けきらなかったベビーたちを思っての行動だったのだろう。

「そっかぁ、ちゃんと良い子に育ってるんだ」

 先生が、少し穏やかな表情になった。


 そして何故か、またしても沈黙が訪れた。

 再び俯いた翠先生は、空になった紙コップを握りしめていた。

 意を決したかのように紙コップを押し潰し、顔を上げた翠先生は真っ直ぐに俺を見て言った。

「荘ちゃん、は、さ、お母さんの事とか何か言ってる?」

 荘太のお母さん。

 荘太がNICUで頑張っているにもかかわらず、次なる子供を身ごもった女性。

 俺の中での印象は、最悪だ。

 でも、荘太は……。

「荘太から、荘太のお母さんの話は、あまり聞いたことがないです」

 翠先生は明らかに落胆した。

「けど、俺が見る限りでは、荘太はお母さんのこと、大好きなんだと思います」

「ホントに?恨んだりとか、怒ったりとか、してないの?」

「はい、あいつが母親のことを悪く言うのを聞いたことはないです」

「そっかぁ」


 翠先生はまた考え込んでいる。

 俺も、聞きたいことがあるけれど、聞いていいのかどうなのか、わからない。

 傍から見たら気まずいどころか別れ話でも切り出しているような重苦しい空気に包まれていた。


「ねぇ」

 話を切り出したのは翠先生だった。

「荘ちゃんはさ、その、お母さんの、に、妊娠の事、知ってるの?」

 先生は、顔を上げない。

 誰が悪いわけでもないというのに、まるで先生が悪いことをしたみたいだ。

「知ってますよ。この前、荘太の誕生日に、父親が報告しに来ました」

 翠先生は、押し潰された紙コップをギュッと握りしめた。

 うつむいたままで、先生は話す。

「荘ちゃんは……何て?」

「『仕方ない』って」

「そう、言ったの?」

 翠先生は、目を丸くしてこちらを見た。

「仕方ない……かぁ」

「『弟が生まれるの、楽しみだ』とも、言っていましたよ」

 さらに目を丸くした翠先生は、無言のまま俺から顔を背けた。

 そして先生は空を見上げた。

 まだ梅雨入り前の空は青く晴れ渡っていた。

 先生の頬に一筋のしずくが流れ落ちていた。


「荘ちゃんは、私が思っているよりもずっと、わかってるんだね、色々なこと」

 先生の目からどんどん涙が溢れている。

「あの小さな体で、すべてを受け止めてたんだね」

 その、独り言とも荘太へのメッセージとも取れる言葉は、青空に吸い込まれていく。

「それでもお母さんを大好きでいてくれる荘ちゃんは、弟がまれてくることを楽しみにしていてくれる荘ちゃんは、優しい子だね」

 一人で納得して、涙を拭って立ち上がった先生は、俺に手を振って、院内へと姿を消した。

 俺は呆然と立ち尽くしていた。

 翠先生が優しすぎるのか、荘太を取り巻く環境が厳しすぎるのかは俺には分からなかった。


 不意に、背後から肩を掴まれた。

 入院患者の見知らぬおじさん。

「別れ話のもつれか知らんが、あんなべっぴん先生を泣かせちゃいかんよ、兄ちゃん」

 違います!


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