『悲鳴』
『だいじょうぶですか?』
NICUに入った瞬間、俺はなぜか心配されていた。
「あ、笹岡君」
『だいじょうぶですか?』
俺は大丈夫だが、こいつらはどうしたというのだろう?
ベビーたちに構うことなく俺は、看護師長の方を向いた。
「今日、BLS講習会があったのに、すっかり忘れていたから、次回のBLS講習会に参加してね」
『あなたは救急カートを持ってきてください!』
「BLS講習会……」
病院では、定期的に、職員向けに緊急対応の講習会が行われる。
「次回もこの隣の会議室でやるみたいよ」
『あなたは、AEDを持ってきてください!』
それで、ベビーたちがやたらと緊迫したセリフを覚えてしまったのか。
納得はしたものの、俺の精神状態は今、それどころではなかった。
『笹岡、緊張してるのか?』
緊張していないと言ったら、嘘になる。
何といっても今日は、NICUの配属になってから初めての夜勤なのだ。
日勤よりもナースも医師も少ないために、何かがあった時にはそこにいる医師やナースにかなりの負担がかかる。
『笹岡、緊張した時は、手に人人人って書いて飲み込むといいらしいぞ』
『何を飲むの?』
『手?』
『手だよ!』
緊張を鎮めるために、命がけだな。
『笹岡、緊張した時には酒を飲むといいってじいじが言ってたぞ!』
勤務時間中ですから!
『笹岡、風邪にはネギを丸のみするといいらしいぞ!』
あ、もう、緊張とかどうでもよくなってますね。
『笹岡、オムツ!』
オムツですね、はい、ただいま。
初めての夜勤は、とても平和に過ぎていた。
このまま、何事も起こらなければと願った。
何か起こったところで、俺に対応できるとは到底思えない。
それでもし、この中の誰かの命が失われるようなことがあったら……。
『笹岡、不安そうだな』
荘太が話しかけてきて、俺は荘太を振り返った。
『でも、前みたいに苦しそうじゃなくなったな』
「……苦しそう?」
『お前、気付いてなかったのか?俺たちの顔を見るたびに、すげえ苦しそうだったよ』
それは、ベビーたちを見るたびに、学生実習のころのトラウマが頭をよぎっていたからかもしれない。
『大人たちは気付いていないかもしれないけど俺たちは、ママや、パパや、大人たちのことを見て、その声を聞いて、色んなことを感じてるんだよ。だからさ……』
『見て、聞いて、感じて!』
荘太のその後の『声』はかき消されてしまった。
『呼吸も脈も、ありません!』
BLS講習会の名残に。
そして……。
『うわぁぁぁぁぁぁっっっ!死にたくないよ死にたくないよ死にたくないよ!』
『悲鳴』に。
電話が鳴った。
主任が電話に出た。
主任の顔が険しくなった。
真剣な声色で電話をしていた主任は、受話器を置きながら、俺のほうを振り返った。
「笹岡!緊急入院だ!」
俺もベビーも、『声』が聞こえるものは皆思った。
今『悲鳴』を発しているあの子が来るのだと。
『イヤだ!死にたくないよ!うわぁぁぁぁぁっ!』
『悲鳴』が、近づいてきた。
ベビーたちは、生きていた時間が短い分、生きたい、という想いがとてつもなく強い。
その『想い』が、『悲鳴』として心に重く響いてくるのだ。
『死にたくないよ死にたくないよ死にたくないよ!パパ!ママ!助けて!パパ!ママ!死にたくないよ!』
NICUの扉が開いた。
主任と小児科医に付き添われて、ベビーが運ばれてきた。
まだ、『悲鳴』は止まらない。
『パパ?ママ?どこ?死にたくないよ!助けて!』
ベビーたちは全員、目の前の光景に『言葉』を失っていた。
『嫌だ!嫌だ!死にたくないよ!死にたくないよ!パパ!ママ!助けて!まだ死にたくないよ……』
インターホンが鳴った。
インターホンに応答すると、そこには、今連れてこられたベビーの両親が来ていた。
主任と小児科医を振り返ると、二人ともが頷いた。
『うわぁぁぁぁぁっっっ!わぁぁぁぁぁぁっっっ!死にたくないよ!死にたくないよ!パパ!ママ!パパ!ママ!』
両親が入ってきた。
『パパ!ママ!パパ!ママ!助けて!死にたくないよ!もっと一緒にいたいよ!』
救命措置が続いている。
生きたい、という思いが『悲鳴』になって俺とベビーたちの心に響き渡っていた。
それを無視するかのように、部屋には無機質なアラーム音が鳴り響いていた。
医師が、少し離れたところにいた両親を呼び寄せた。
ゆっくり近づく両親。
『パパ!ママ!パパ!ママ!助けて!もっと一緒にいたいよ!一緒に生きたいよ!パパ!ママ!』
母親が、医師に勧められて子供を抱き上げた。
『パパ!ママ!パパ、ママ、大好きだよ……』
午前一時三十七分、生まれて三時間足らずの小さな命はお母さんの腕の中で息絶えた。
部屋が静寂に包まれた。
泣き崩れる母親。
その背後にいる父親の目にも涙が浮かんでいる。
「ごめんね、ごめんね……」
静かなNICUに母親の声だけが響き渡った。
そんなに謝らないでください。
そんなに泣かないでください。
あなたたちのお子さんは、最期に、あなたたちのことを『大好き』って言ったのだから。
いときりばさみの若干衰退しつつある用語解説
・BLS講習会……目の前で人が倒れたときなんかに、心臓マッサージとか、AED(自動体外式除細動器を英語にして省略したもの:医療従事者でなくても使用できる電気ショックするやつ)でどっかんしたりするための講習会