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『ミルクが切れた!ミルクミルク……!』

 谷崎ベビーが泣き出した。

 ということは、もうミルクの時間か。

『ミルクミルク!お腹がすいたよ!』

 時計を見ると、午後の三時を指していた。

 谷崎のママは、今日もミルクを自分で飲ませたいと言っていたから、谷崎のミルクは、お母さんが来るまでお預けだ。


 インターホンの鳴る音がした。

「平山さやかの母です」

 オペ後順調に回復したさやかは、今日から面会を許された。

 だからこそ、面会時間に一番乗りに母親が来るのもうなずける。

『あ!ママだ!ママ!ママ!』

 さやかも大喜びだ。

『キャー!今日はパパもいるの?パパ、今日も素敵!』

 さやかのパパが聞いたら、喜ぶんだろうな。

『私のママじゃなかった!』

 その向かいで、谷崎は明らかに不機嫌そうだ。

『ミルクミルクミルク……ミールークー!』

 相変わらず谷崎がわめいている中、再びインターホンが鳴った。

「山口です」

 谷崎、残念。今度は紗代のママだったね。

『ミルクミルクミールークー!……笹岡バカヤロウ!』

 完全なやつあたり、ありがとうございます。


 谷崎の母親は、マイペースらしくて、いつも遅刻気味だ。

 だから俺たちも、谷崎のミルクのタイミングを少し遅らせようと努力はしているのだが、いつも谷崎は、きっかり三時間おきに泣きわめき始める。

 今日は、ほとんどのベビーの家族がやってきた中、まだ面会に来る家族がいないのは、谷崎と荘太だけになった。

『ミルクミルクミルクミルク!グレるぞ!』

 その年からグレないでほしいな。


「あら、こんにちは」

 出入り口のところで、女性の声がした。

 あの声は……。

『ママ!ママ!ミルク!早く来て!』

 そうだ、谷崎の母親の声だ。

 どうやら誰かの母親と話し込んでいるらしかった。

 少しして、インターホンの音がした。

「谷崎です」

 さっきまで、声、聞こえまくってましたよ。

『ママ!ママ!ミルクミルク!オムツはいいからミルク!オムツもちょっと気持ち悪いけど、とりあえずミルク!オム……あ、ありがとう!ミルクミルクミルク!』

 マイペースにオムツを替えた母親が、ミルクをあげ始めると、ようやく谷崎は、泣き声も『声』も静かになった。


 俺は喧騒の中、荘太の方を見た。

 今日も、荘太のところには誰も来ない。

 今日だけは、荘太の家族に来てほしかった。

 今日は、荘太の一歳の誕生日だ。

 周りのベビーたちが家族との面会で喜びの『声』を上げる中、荘太は一人、目を瞑っていた。

 自分が生まれたその日に、家族が一人も来ないなんて、そんなの、寂しすぎるだろ?そんなの、辛すぎるだろ?

 俺は、荘太のもとへ歩み寄った。

『どうした、笹岡?』

「荘太、今日、誕生日だよな、おめでとう」

 本来ならば、荘太の家族が来て言うべき言葉だ。

 たとえ忙しくても、忘れちゃいけないことだってあるはずなのに。

 そこにいるのは愛すべき命だというのに。

 刻々と時間が過ぎていく。

 面会時間の終わりが近づいてくる。

 時計を見て、帰り始める家族たち。

 荘太の誕生日の日の面会時間が、終わってしまう。


 面会に来た家族たちがすべて帰ってしまった頃、インターホンが鳴った。

「中山です。中山荘太の父です」

 若い男性の声だった。

 時計を見た。

 面会終了の五分前。

 招き入れると、荘太の父親は、足早に荘太の元へとやってきた。

「荘太!誕生日おめでとう!」

 そうか、ちゃんと覚えてくれていたんだ。

「荘太、今日はもう一つ、いいお知らせがあるんだ!」

 荘太の父親が目を輝かせて言った。

「弟ができたんだ!来年には荘太はお兄ちゃんだぞ!」

 一瞬、耳を疑った。

 ろくに荘太のお見舞いにも来ないくせに、弟ができた?

 どういうことだ?

 面会時刻終了の音楽が鳴り、荘太の父親は「また来るよ」と言って、立ち去っていった。

 家族に会って、はしゃぎ疲れたベビーたちは眠りに落ちていた。

 静寂の中に取り残された俺は、そっと荘太のところへやってきた。

『どうした、笹岡?不満そうな顔をして』

 荘太がちらりと目を開けて言った。

「だって……いいのか?荘太は」

 ちっとも面会に来ない家族。

 誕生日ですら、父親が五分ほどいただけなんて。

 その上、荘太の存在などまるでなかったかのように、弟ができたなんて。

 一歳になったばかりの幼い子供がこんなに厳しい現実にさらされているなんて。

 そんなこと、あっていいのか?

『仕方がないことなんだ』

 そう言って、荘太は俺に背を向けた。

 何で荘太がそんなに冷静でいられるのかが、俺には分からなかった。

 俺が考えても、どうしようもないことだ。

 俺も仕事に戻ろうと、荘太に背を向けた。

『なあ、笹岡』

 そんな時、不意に俺は荘太に話しかけられて、荘太を振り返った。

『笹岡には、兄弟はいるのか?』

「いるよ、弟が一人。俺よりすごく出来がいいんだ」

 弟という存在は、俺の人生には不可欠だったと思う。

『そうか。兄弟って、何か楽しそうだな』

 俺は荘太のベッドを覗き込んだ。

『楽しみだな、弟』

 荘太の穏やかな笑顔を見て、何だか俺は、胸が苦しくなった。


『じゃあな、笹岡!』

『優先席は私のママに譲りなさいよ!』

『ミルクは三時間おきだぞ!』

『ちゃんと沐浴しろよ!』

『保育器から落ちるなよ!』

 仕事を終えた俺は、ベビーたちに何か違うような別れの挨拶をされながら帰路についた。

 病院を出たとき、不意に背後から肩をたたかれた。

「兄貴、お疲れ様」

 それは、俺の弟の雅之(まさゆき)だった。


******************************


 物心がついたときには、俺には既に当たり前のように『声』が聞こえていた。

 だから、それは、皆にも聞こえていると思っていたし、周りの人は、俺がベビーたちと話していても、想像力が豊かなのだと、何ら気にも留めていなかった。

 そして、俺が四歳の時だった。

 母親に抱き付いたとき、小さな小さな『声』が聞こえた。

『……ん?…………んー…』

 少し起きて、再び眠りについたようなその『声』は、かすかにしか聞こえなかったが、俺にはわかった。

「ママのお腹に赤ちゃんがいる!」

 それが、俺と雅之の初めての出会いだった。

 そしてそれは、母親が妊娠の事実に気付くよりも、ずっと前のことだった。

 この時も、俺の周りの人は、兄弟の繋がりかなんかでそんな気がしたのだろうと、呑気に考えていた。


 それからしばらくして、雅之が生まれた。

 そして雅之が生まれてから数日後、母親が雅之とともに退院してきた。

 ビデオカメラを構える父親の後ろから、俺は飛び出した。

「ママ、お帰りなさい」

「ただいま、明。弟の雅之よ」

「雅之、おかえり」

『誰?この声、聞いたことあるよ!』

「僕は、雅之のお兄ちゃんだよ!」

『わあ!お兄ちゃんだ!いつも、おなかのお外にいたお兄ちゃんだ!』

 両親がにこにこしながら俺たちを見ていたから、俺は、両親にも『声』が聞こえているものだと勝手に思い込んでいた。

 だが、次の瞬間、

『あ、おしっこ出ちゃった!オムツ気持ち悪い!』

 雅之がそう言ってもぞもぞしだしたのに、両親は何の反応も示さなかった。

 父親は相変わらずにこにこしながらビデオを撮っているし、母親は、にこにこしながら雅之のほっぺたをつついていた。

 俺がおしっこ出ちゃったと言ったらいつでも両親は慌てて反応するというのに、何で雅之の言葉を無視するんだろう?

『オムツ気持ち悪いよ!』

 そして、両親に無視され続けているうちに、雅之はとうとう泣き出してしまった。

「あら、どうしたのかしら?」

 とぼける母親。

 それでも笑顔でビデオを撮り続ける父親。

 どうして二人とも、雅之の『声』を無視するのだろう?

「ねえ!雅之のオムツ!」

 痺れを切らした俺は、母親に言った。

「ん?あら、本当!」

 大げさに驚く母親にも、妙に感心しながらビデオを撮り続ける父親にも、俺は不信感を募らせていた。

 その夜のことだった。

「おい、明!」

 雅之が帰ってきてからずっとテンションが上がりっぱなしの父親が俺に話しかけてきた。

 俺が返事をしないでいると、父親が続けて言った。

「今日の雅之のビデオを見るぞ!」

「イヤだ!」

 俺は、あの時の光景を思い出していた。

 雅之の訴えを無視してビデオを撮り続けていた父親を思い出していた。

 一緒にあの時のビデオを見てしまったら、自分まで悪者になってしまうような気がして、俺は一生懸命抵抗した。

 結局五歳の子供の力で大人にかなうはずもなく、俺はテレビの前まで連れて行かれてしまった。

 父親が嬉しそうに再生ボタンを押すと、少し乱れた画面が出た後、見慣れた我が家の車が映し出された。

 そう思った直後に、画面に突如として自分の後ろ姿が映し出された。

「ママ、お帰りなさい」

「ただいま、明。弟の雅之よ」

「雅之、おかえり」

 あれ?ここで雅之が、何か言っていたような。

「僕は、雅之のお兄ちゃんだよ!」

 ビデオに映っている映像では、まるで俺が一人で雅之に話しかけているようだった。

 母親はにこにこしながら俺たちを見ていた。

 確かにビデオを撮っていた時も母親はにこにこしながら俺たちを見ていた。

 それでも、何かが違うと思った。

 でも、そうこうしているうちに、あの悲惨な場面がやってくることに気付いた。

 画面の中の母親は、にこにこしながら雅之のほっぺたをつついている。

 何かがおかしい。

 何かがおかしいと思っているうちに、画面の中の雅之が泣き出していた。

「あら、どうしたのかしら?」

 とぼけるような母親の声をあの時も確かに聞いた。

 それでも、何かが違う。

「ねえ!雅之のオムツ!」

 その自分の声を画面の向こうから聞いて、俺は、何が違うのかを、やっと理解した。

「パパ!雅之の『声』が聞こえないよ?」

 そうだ、雅之の『声』が、聞こえないんだ。

 父親を見上げると、父親は不思議そうに言った。

「何言ってるんだ、明?雅之の声、聞こえてるだろう?あの時も、大きな声で泣いてたじゃないか」

「違うよ、パパ、そっちじゃなくて、雅之の『声』が……」

 あの時、俺はそれでもまだ、自分以外の人間に『声』が聞こえないなんて気付かないでいた。

 その頃から、俺は徐々に両親が信じられなくなっていた。


******************************


「兄貴はさ」

 病院から一緒に歩いていた雅之が不意に話しかけてきた。

「実家に住もうとは思わないの?」

 俺は首を横に振った。

 病院が実家から通える距離にあるというのに俺は、就職とともに家を飛び出していた。

 学生実習の時にNICUで味わった苦い経験は、俺の五歳のころの、両親や周りの大人への不信感を思い出させてしまっていた。

 両親と、良好な関係を持ち続けるためにも、俺は、両親と距離を置くことを選択した。

 そして雅之は、俺と両親の間に板挟みになっていた。

 『声』しか発することのできなかったあの頃のように。


******************************


『ママ!ミルクちょうだい!』

「雅之、ママは気付いてくれないよ。ママはね、宇宙人に操られてて、雅之の『声』を無視するように指令されてるんだ」

 雅之の『声』を無視し続ける両親を、俺は信じられなくなっていた。

 そして俺は、両親は宇宙人に操られていて、雅之の『声』を無視しているんだと思うようになっていた。

『でも、ママ、いつも、僕が泣いたら気付いてくれるよ?』

 雅之は決まって両親をフォローしていた。

「でも、ママもパパも僕がおかしいっていうんだよ?いろんな病院に連れて行くんだよ?きっと、僕もいつか、宇宙人に改造されちゃうんだ!」

 両親は両親で俺がおかしいと思い、耳鼻科、脳神経外科、精神科、あらゆる病院に連れて行っていた。

 両親が宇宙人に操られていても、俺には雅之がいるから大丈夫だ、俺は雅之を守らなきゃと、俺は本気でそう思っていた。

 そんなある日のことだった。

『ねえねえ、お兄ちゃん!』

 雅之が、しきりに俺に話しかけてきた。

「どうしたの、雅之?」

『僕ね、気付いちゃったんだ!』

 雅之が、真剣に俺の目を見て言った。

『パパも、ママも、宇宙人に操られてるわけじゃないんだよ!』

「え?でも、パパもママも雅之の『声』……」

『パパにもママにも、僕の『声』は、聞こえていないんだと思うんだ。ビデオに写ってる僕みたいに。パパにもママにも、僕の『声』は聞こえてないんだよ!』

 雅之は、一生懸命考えて、その答えにたどり着いたのだった。

 そして、雅之のおかげで俺は、『声』が聞こえることが普通ではないことに気付くことができたのだ。


******************************


「雅之も、家を出たいのか?」

 もしかして、雅之も家を出たいけれど俺が出て行ってしまったせいで家を出られなくなってしまったのだろうか?

「ううん、聞いてみただけ」

『お、笹岡じゃないか!』

 不意に『声』がして、俺は振り返った。

『よ!元気か?』

 そこにいたのは、先日退院した鈴村だった。

「兄貴、どうしたの?」

「いや、何でもない」

 そして、急に振り返った俺を不思議そうに見つめる弟をみて、俺は、雅之には『声』が聞こえなくなったことを再認識した。

 雅之が『声』を失ったあの日のことを、俺は今でも覚えている。


******************************


『お兄ちゃん!』

 その日の雅之は上機嫌だった。

「雅之、どうしたの?」

『僕ね、なんとなくわかっちゃったんだ!』

「何が?」

『ママやパパとお話しする方法!』

「ママやパパは『声』は聞こえないのに?」

『だからね、自分のお口でおしゃべりするんだ!お兄ちゃんがおしゃべりしてるみたいに!』

「あ、そうか!」

 ちょうど母親がこちらに歩いてきた。

『お兄ちゃん、見てて!』

 雅之はそっと俺に囁いた。

「あら、雅之、起きてたの?」

 母親が雅之を覗き込んだ次の瞬間だった。

「ママ」

 それは、雅之が初めて、自分の口から言葉を発した瞬間だった。


 それから俺は、徐々に気づいていった。

 雅之はあの瞬間から、『声』を発しなくなっていたこと。

 雅之には『声』が、聞こえなくなったこと。

 雅之は、それまでの記憶を失ったこと。


******************************


『笹岡、オレのカノジョたちは元気か?』

 俺は、鈴村の『寝言』を無視することにした。

『そうか、皆元気なのか』

 それを鈴村は、勝手に解釈していた。

『あ、あと、荘ちゃんは、元気か?』

 その言葉を聞いて俺は、今日の荘太とのやり取りを思い出した。

 荘太が弟を楽しみだと言ったことを思い出した。

 なあ荘太。

 俺の弟は、俺にしか『声』は聞こえないということを教えてくれた。

 俺に弟がいたから、『声』はいつしか失われるものだと知った。

 俺に弟がいたから、『声』を発していた時の記憶は、失われるものだという悲しい事実を知ることができた。

 俺にとって弟という存在は、不可欠なものだった。

 俺にとって弟は、かけがえのない存在だ。

 それでもそれは、荘太にとっても同じとは限らないんだ。

 でも、荘太の家族が皆、荘太の弟ばかり大事にして、荘太のことを愛してくれなくなったら、誰が荘太を愛してくれるんだ?

 本当に荘太は、それでいいのか?

「兄貴、どうしたの?」

 弟に言われて我に返った俺は、再び歩き出した。

 答えの出ない質問を、心の奥底に埋めながら。

『あ、かわいい子発見!ねえ、オレと遊ばない?』

 鈴村の『ナンパ』を聞かなかったことにしながら。

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