救世主
モテないブラザーズの解散の日が近づいている。
俺に彼女ができたわけでも、鈴村に彼女ができたわけでもない。
近々鈴村が退院するのだ。
今日は、鈴村の退院前の聴力検査をしに、検査の人が来ていた。
『おい!そこのお前!今、絶対に何かつけただろ!にゅるっとするぞ、にゅるっと!』
鈴村がぐずりだし、検査技師はパッと手を離した。
「何でもないよ、何もしてないよ?」
『そうか。ならいい』
その言葉にあっさり騙されて、鈴村がおとなしくなったのを見て、検査技師は再びシールを貼り始めた。
『おい、おでこ!おでこヒヤッとしたぞ!』
鈴村が再びぐずりだしたのに気付いた検査技師は、手をパッと離した。
「あれー?どうしたのかな?何にもしてないよ?」
『そうか、気のせいか』
鈴村よ、単純すぎるぞ。
単純すぎる鈴村は、上手くごまかされながら検査を受け、すごく順調に検査は終わった。
「お利口さんだったから、すぐ終わったね!さすがだね!」
検査技師が手際よく機械を片付けながら鈴村に話しかけた。
『お姉さん!そんなお利口さんなオレの、彼女にならない?』
鈴村よ、いくらなんでも見境が無さすぎるぞ。
そんな鈴村の告白が、『声』の聞こえない検査技師に届いているはずもなく、
「ごめんね、ちょっと痛いよ!」と、鈴村に強力に貼り付いたテープが剥がされた。
『ぎゃー!イタイー!ムリー!悪魔ー!』
痛みに耐えきれず、鈴村は、大音量で泣き出した。
「あらあら、さっきまでお利口さんだったのに、どうしちゃったのかしら?」
荷物をまとめた検査技師は首を傾げながらそう言い、
「じゃあ、鈴村くんの検査終わりましたので、失礼します」と、俺に一礼して、NICUから去っていった。
『俺とのことは、遊びだったのかー?』
鈴村よ、それは遊びではなく、検査だ。
『鈴村くんうるさーい!』
『眠れない!』
『鈴村うるさい!』
『鈴村フラれた!』
『少しは静かにフラれろよ!』
鈴村の泣き声に触発されて、ベビーたちが泣き始めてしまった。
とりあえず、何とか収拾をつけなければ。
俺は、諸悪の根源である鈴村のもとへと歩み寄った。
『失恋、痛すぎるぞ、兄弟!』
鈴村よ、それは、失恋の痛みではなくテープを剥がした痛みだ。
仕方がないので、俺は、鈴村を抱っこして、あやし始めた。
『そう何度も同じ手にかかってたま……ZZZ…………』
鈴村よ、君は面白いほど何度も同じ手にかかっているぞ。
鈴村につられて泣き出したベビーたちを、何とか落ち着かせてながら、あの喧騒の中泣かなかったベビーたちの様子も見て回った。
まず、三日前に入院してきた谷崎ベビー。
こいつはミルクを飲むと、次のミルクの時間まで、基本的に爆睡だ。
谷崎の顔を覗き込んだ。
案の定、爆睡だった。
次に、重鎮、荘太。
もはや、ちょっとやそっとでは泣かないと、本人は言っている。
荘太の顔を、覗き込んだ。
『何か用か?笹岡』
相変わらずの様子だ。
ちょっと意外だったのは、おませのさやかだ。
泣いてわめいたりはしなくても、いつもなら何らかの『発言』があってもおかしくないのだが、今日はやけにおとなしい。
向かいのベッドの谷崎に触発されて爆睡しているのだろうか?
さやかの顔を覗き込もうとしたとき、消え入りそうな『声』が聞こえた。
『……うぅ…………』
さやかは、眠ってなどいなかった。
小さな『声』で、唸っていた。
「どうした?さやか?」
『…………イタイ……』
「胸が痛むのか?」
さやかは、不整脈を患っているのだが、不整脈の発作は、今は起きていないようだった。
『……オナカ…………イタイ……』
「お腹?」
嫌な予感がした。
泣き止んだベビーたちが、さやかの異変に気付き始めた。
『さやかちゃん、どうしたの?』
『さやか、どうした?』
『笹岡、何とかしてよ!』
『おい、笹岡!』
そうだ、誰かに知らせなければ……。
ナースステーションのほうを見ると、医師らしい人物が見えた。
近寄って確かめてみると、そこにいたのは纐纈だった。
纐纈には、川鍋医師の息がかかっている。
俺が言ったところで、診てくれないかもしれない。
だが、今NICUにいる医者は、纐纈だけのようだった。
『笹岡!』
『笹岡、早く!』
せかすようなベビーたちの『声』に、俺は我に返った。
何もしていないうちから、決めつけてはいけない。
俺は纐纈のもとへと歩み寄った。
「纐纈先生、ちょっといいですか?」
纐纈は、少し驚いた様子を見せ、そしてまた目を伏せた。
川鍋命令で無視することになっているのか?
そんな、小学生じゃあるまいし!
そう思っていた矢先、纐纈は読んでいた本を閉じて、こちらに歩いてきた。
俺は、纐纈をさやかのもとへと連れて行った。
「発作は、しばらく続いているのか?」
纐纈にそう言われて、心電図のモニターを見ると、ちょうどさやかは不整脈の発作も起こしていた。
「発作は、さっきからだと思います」
不整脈は、ほどなくしておさまった。
纐纈は、少し怪訝そうな顔をし、学会の準備が忙しいからと言い残し再び先ほどの位置へと戻っていった。
やはり駄目か。
『声』が聞こえたって、頭がおかしいと思われるだけなんだ。
だったらいっそ、最初から『声』が聞こえなかったことにしてしまえば。
『おい!笹岡!何やってんだよ!』
荘太に話しかけられ、俺は荘太の方を向いた。
『今は、不整脈じゃなくてお腹のこと聞きたかったんだろ?何あっさり引いてんだよ!』
荘太は、俺たちの会話の内容を理解していた。
『笹岡は、さやかを見捨てるのか?』
俺は、見捨てたいわけではない。
『笹岡は、大人の癖にさやかを見捨てるのか?』
大人だからこそ、守らなければならないのに。
『笹岡は、『声』が聞こえる癖にさやかを見捨てるのか?』
『声』が聞こえるからこそ、伝えなければならないのに。
『なあ、笹岡!』
でも俺は、あの時と同じ後悔を繰り返したくないんだ。
あんな悔しい思い、もう二度と味わいたくないんだ。
『俺、笹岡が来る前に、聞いたんだ!シャッチョーが、俺たちに言ったんだ!』
看護師長が?
『もうちょっと待っててね、もうちょっとで、救世主が来るから、みんなの気持ちをわかってくれる救世主が現れるからって』
そういえば、看護師長が、俺をNICUに推薦したと言っていた。
『涙ぼろぼろ流しながら、言ってたんだ!』
看護師長は、あのことをずっと後悔していたのかもしれない。
同じ後悔を繰り返したくないから、俺をNICUに推薦したのかもしれない。
『なあ、笹岡!救世主って、笹岡の事じゃないのかよ?』
じゃあ、俺は?
『俺たちの『声』、届けてくれないのかよ?』
俺は……。
俺は、あの時のことを思い出した。
その『声』のことを伝えようと思ったその時、俺は変だと思われても構わないと思った。
俺が本当に後悔しているのは、『声』を伝えようとしたことじゃない。
『声』が伝わらなかったことで、失われた命があるということなんだ。
俺は、再び纐纈のもとへ歩み寄った。
「纐纈先生、もう一度、平山さやかちゃんを診てもらえませんか?」
「不整脈の発作か?」
「違います」
「不整脈の発作がもう一度出たら、呼んでくれと言ったはずだ」
「不整脈の発作は出ていませんが、そっちじゃないんです」
纐纈が不機嫌そうに顔を上げた。
「あの子のお腹を診てほしいんです」
纐纈は不機嫌な顔のまま、黙り込んだ。
この沈黙が、永遠に続いてしまうような気がした。
こうしている間にも、刻一刻とさやかの『声』は、弱まっている。
『さやかちゃん、しっかり!』
『纐纈、来てよ!』
『早く!』
『さやかちゃんが、大変なんだ!』
『纐纈、お願い、さやかちゃんを助けて!』
ベビーたちの『声』が纐纈に訴え続けている。
「頼む、纐纈」
頭を下げた俺の視界の端で、纐纈が再び本を開くのが見えた。
このままじゃ、手遅れになってしまう。
助かるはずだったさやかの命が失われてしまったら……。
「私からもお願いします」
突然背後から声がして、俺は慌てて振り返った。
その声に、纐纈も顔を上げた。
「纐纈先生、平山さやかちゃんのお腹を診てあげてください」
それは、楠木看護師長だった。
「ちゃんと、診てあげてください」
看護師長に念を押されると、纐纈は本を閉じて立ち上がった。
俺は、さやかのもとへと向かった纐纈の後を追いながら、看護師長を振り返った。
看護師長は穏やかな笑顔でしっかりとうなずいた。
さやかのお腹を触診した纐纈は、首を傾げながらPHSを取り出し、電話を掛け始めた。
どうやら、精密検査をする事に決めたようだ。
検査に連れていかれるさやかを、ベビーたちが不安げに見守っていた。
あれから、どれくらい時が経っただろうか?
さやかがNICUに戻ってきた。
検査の後、緊急手術を受けたさやかは、今までよりもたくさんの機械に繋がれていたけれども、それでも確かな息づかいを感じた。
『笹岡、ありがとな』
荘太がそっと、囁いた。
『纐纈にもちゃんとお礼、言っとけよ』
こいつは何でいつもこんなに上から目線なんだろう?
その日のこと、纐纈に飲みに誘われた。
普段ほとんど飲み会に顔を出さないというのに、珍しいこともあるものだ。
病院の近くの居酒屋で、俺は纐纈と二人でカウンターテーブルに腰かけていた。
「今日は本当に、ありがとな」
「さっきも聞いた」
ああ、そうでしょうね。さっきも言いましたから。
さやかの件のお礼以外に、特に話すことのなかった俺は黙り込み、何だか気まずい沈黙が流れた。
「お待たせしました!生二つです!」
気まずい沈黙にややどぎまぎしながら店員が生ビールを置いて去って行った。
このまま黙っていてもどうしようもない。
そう思って、ビールに手を伸ばそうとした時、纐纈にそれを制止された。
何故だ!飲ませろ、と言えるはずもなく、俺は手を引っ込めた。
「酒が入る前に聞きたい」
纐纈の目は真剣だ。
「笹岡は、どうやってあの子の異変に気づいたんだ?」
『声』が聞こえました、なんて言えるはずないよな。
「様子とか?」
「様子なら俺だっていつもくまなく見ている。どういう違いがあって、あの子の調子が悪いって気付いたんだ?」
やはり、適当に言っても通用しないか。
纐纈の目が怖い。
確か昔から、アイツは嘘が通用しないと有名だった。
何だか嫌な汗が出てきた。
目の前のビールも、汗をかき始めている。
やばい、ビールがぬるくなる。
俺はどちらかというと冷たいビールの方が好きだ。
「楠木さんにも聞いてみたが、笹岡にはどうしてだか赤ちゃんの異常を見分ける能力があるらしいとしか教えてもらえなかった」
看護師長にまで聞いたのか!
纐纈は真剣な眼差しでこちらを見つめ続けている。
明らかに、答えを求められている。
どうしろというんだ?
嘘は通用しない相手だというのに、真実が一番嘘くさい。
ビールの泡はほとんど消滅している。
俺はどちらかというと、ぬるいビールは好きじゃない。
痛いほどに纐纈の視線を感じる。
纐纈の中で何らかの答えに到達しないと、ビールは飲ませてもらえそうにない。
このままじゃ、埒が明かない。
俺は覚悟を決めて、纐纈を見た。
「信じられないことだと思うんだが、俺は、赤ちゃんの『声』が聞こえるんだ」
「声だったら、普通、聞こえるだろ」
「纐纈も、聞こえるのか?」
「はぁ?何のことだ?」
纐纈の眉間にしわが寄った。
纐纈が聞こえるって言ったのは、『声』じゃなくて泣き声の方か。
「赤ちゃんの泣き声じゃなくって、その、何ていうか、赤ちゃんの『想い』が『声』として聞こえるんだ」
「はぁ?」
纐纈の眉間のしわが深くなった。
やっぱり、そう簡単に信じてくれるわけないよな。
俺たちの間に少しの間、沈黙が流れた。
「ねぇ!」
不意に、沈黙が破られた。
その言葉を発したのは、俺でも纐纈でもなく、急に俺たちの間に割って入ってきた美人だった。
その顔に見覚えがあった。
産婦人科医の谷岡翠先生だ。
ベビーたちのアイドル的存在の翠先生が今、べろんべろんに酔っぱらいながら、俺の肩にのしかかってきている。
「今の話、本当?赤ちゃんの『声』が聞こえるとか……」
しかも、俺たちの会話を聞いてたっぽい。
不意に、肩が軽くなった。
「ちょっと翠先生、何ほかの客に絡んでるんですか!」
気付くと別の女性が翠先生を俺から引きはがしていた。
「あ、纐纈先生……!」
女性は纐纈を見て、一瞬歓喜の声をあげたものの、すぐに翠先生を引っ張っていった。
「ちょっと、舞ちゃん、私、アレと話があるの!ねえ……」
翠先生の声はだんだん遠ざかって行った。
……先生、俺は、アレですか?
そして、再び、静寂が訪れた。
「笹岡」
纐纈が話しかけてきて、俺は、纐纈の方を向いた。
「正直、『声』が聞こえるとかいう話は信じられない」
やっぱりそうか。
肩を落とす俺に向かって、纐纈は続けた。
「だが今回、笹岡があの子の何らかの異変を見抜いたことだけは確かだ」
纐纈は、ここになって初めてビールに口を付けた。どうやら考えがまとまって、ビールが解禁になったようだ。
俺もビールに口を付けた。
……やっぱり、ぬるくなってる。
「俺は、結構よくベビーたちの様子を見ているほうだと自負していたんだがな」
纐纈は自嘲的にほほ笑んだ。
「だが、俺の観察眼もまだまだのようだし、今後もああいった異変に気づいたら教えてくれ」
どうやら、纐纈は俺に観察眼で負けたと思っているらしい。
それでも、これからも、あいつらの『声』のことを聞いてくれる医者ができたとこは、この上なく心強いことだ。
嬉しくなって思わずビールを飲み干したが、やはりビールはぬるかった。
いときりばさみの逆にわかりづらい用語解説
・心電図のモニター……簡単な心電図をつけて、画面に映し出すことで、心拍数とかの変動や心電図の様子を見守ることができるもの。
・不整脈……脈が速く出たり遅く出たり乱れていること。細かく知りたい人はネットで検索!
・学会……ある分野についてマニアックな人たちがこぞって集まり、発表したり、勉強したりする集会。纐纈先生は準備しているので、学会の発表でもするのでしょう。
・PHS……電話。医療機器にあんまり影響はないらしいという噂なので、医療従事者が病院内で使用している。