中山荘太物語
読んで字のごとく、荘太君が主人公のお話です。
ここは、トンネルの中だろうか?
果てしなく、暗い。
遥か彼方に点のように光が見えた気がしたが、そちらに向かおうとしても、すごい向かい風が吹いてくる。
でも、何となく、本能でわかる。
この向かい風に、流されてはいけない、と。
そして、向かい風に逆らいながら俺は、今までの俺の短い短い人生を、思い出していた。
俺に、意識、とでも言うべきものが芽生えた頃にはすでに、俺の周りの環境は、ボロボロだった。
俺が、自分自身を、そして母親の存在を自覚した時には、母親の体はストレスでボロボロになっていたのだ。
母親が、おかあさま、と呼ぶ人間の言葉からは、悪意しか感じられなかった。
「こんなことも出来ないで、貴女は中山家の嫁としての自覚は、あるのですか?」
「中山家の嫁として、英語もできないのは恥です。家庭教師をつけさせますから、勉強なさい」
「こんなもの、息子の口に合うはずがありません。本家からシェフをよこしますから、今すぐ、その粗末な食べ物を処分しなさい」
こんな具合に、おかあさまは、母親を見下して、バカにして、嫌なことばかり言った。
そのせいで、俺の住環境は、最悪だった。
意識が芽生え始めてから、時間の経過と共に、俺はだんだんと状況を掴めてきた。
俺の両親は、恋愛結婚というやつらしく、おかあさま、すなわち俺の祖母は、それを快く思っていなかったこと。
つい先日亡くなった祖父の跡を継いで大会社の社長になった父親の仕事が膨大すぎて、家に帰ることすらままならない状況だと言うこと。
そして、父親がいない自宅では祖母が母にきつい言葉を浴びせかけていること。
しばらくして、母親が俺を宿していることが判明した。
孫という存在に気付けば、祖母も多少は嫌なことを言わなくなるんじゃないかと、そう思っていた。
だが、母親の妊娠が発覚しても、祖母の態度はあまり変わらなかった。
「貴女、そんな無茶をして、中山家の跡継ぎを宿しているという自覚はあるのですか?」
「当分、買い物は私がしてまいりますから、貴女は外出を控えなさい」
「また、貴女はそんな粗末なものを食べて、お腹の子に響いたらどう責任を取るつもりなのですか?」
態度が変わらないどころか、祖母の小言は増えているようだった。
でも本当は、祖母は祖母なりに、母を、そして俺を気遣ってのことだったんじゃないかと思う。
その気遣いは、母親には伝わらなかった。
初めは優しい言葉ばかりだった俺への語りかけは、日に日に愚痴が増えていった。
ねえ、お母さん、お願い。
どれだけでも、愚痴を聞くから。
たくさん、愚痴を言ってくれればいいから。
ため込まずに俺に吐き出してくれればいいから。
だから、お願い。
おばあちゃんを、嫌いにならないで。
ケンカ、しないで。
俺のささやかな願いは届くことなく、嫁姑の間にできた溝は深まっていくばかりだった。
おばあちゃん、お母さんにもっと優しい言葉をかけてあげて。
お母さん、おばあちゃんの言葉の裏側に潜む優しさに、気付いてあげて。
お父さん、お母さんとおばあちゃんの危機に気付いてあげて。
俺が、なんとかしなきゃ。
俺は、早く大きくならなきゃ。
早く、大きくなりたかった。
早く、外に出たかった。
早く、大人になりたかった。
俺が、頑張るから。
お母さんも、お父さんも、おばあちゃんも、大好きだから。
俺は、皆を守りたい。
だから、早く、早く、早く……。
早く、お母さんのお腹の中から抜け出したら、早く大きくなって、皆を守れるかもしれない。
そう思った俺は、早々に、この空間から抜け出そうと試みた。
ストレスでボロボロだった母親から抜け出すのは、難しくなかった。
そして、俺は、体重わずか四三〇グラムで外へと飛び出した。
そこに待っていたのは、明るい未来ではなく、厳しい現実だった。
耳は辛うじて聞こえるけれど、目が見えない。
自分で呼吸ができない。
体温の調節もままならない。
たくさんの機械に繋がれてようやく生きている自分。
皆を守りたいだって?
こんなナリで?
守られていて、それでも生きていくだけで精一杯なのに?
自分が情けなかった。
それでも、母を思い、父を思い、祖母を思った。
生きなければ。
何が何でも生きてみせる。
俺が外に飛び出してから数日後、体調が回復した母親が見舞いに来た。
機械に繋がれて、生かされているともいえる俺の姿を見た瞬間、母親は泣き崩れた。
「ごめんね、ちゃんとお腹の中で育てあげられなくて、ごめんね……」
お母さん、泣かないで。
お母さん、謝らないで。
俺が、早く生まれてきてしまったのは、お母さんのせいでも、おばあちゃんのせいでもないんだ。
俺が、それを望んでしまったから。
まだ、出るべきでないという本能の警告を無視したから。
俺は絶対、元気になる。
元気になって、退院して、大きくなって、そうしたら今度こそ、俺がみんなを守るから。
だからお母さんも、元気になって。
俺はまだ、言葉のしゃべり方がわからなかったから、母親にこの想いは伝えられなかったけれど、元気になることで、この気持ちが伝わるといいなと、そう思っていた。
初めに見舞いに来て以来、母親は一度も姿を見せなかった。
風の噂で、母親は、俺のことに責任を感じるあまり、心を病んでしまったと聞いた。
一方俺は、元気にならなければと焦るたびに体調が悪化して、なかなか退院できないでいた。
そんな状態が続く中、俺は、一歳の誕生日を迎えた。
父親が、見舞いに来た。
毎日、目が回るほど忙しいはずなのに来てくれた。
俺が、生まれてきた日のことを覚えていてくれた。
「荘太、もう一ついいお知らせがあるんだ!弟ができたんだ!」
ずっと、心配していたんだ。
俺のせいで、両親が別れさせられてしまっていたらって。
でも、その心配は要らなくなった。
だって、両親は、別れさせられていない。
その上に、弟ができた。
弟が、俺みたいにならずに元気に育ってくれれば、嫁姑にできた溝も、埋まるかもしれない。
でも、同時に少し寂しかった。
俺の存在は、必要ないんじゃないかって思えたから。
そして今日。
遠くで弟の『声』がした。
『ママ、もう出ていい?もう、出ていい?』
ちゃんと、我慢できたんだな。
俺と違って、ちゃんと、出てくるんだぞ。
少し、油断したのかもしれない。
体調も、よくなかったのかもしれない。
突然、目の前が真っ暗になって、突風が吹いてきた。
気付くと俺は、長く暗いトンネルの中で、向かい風に逆らっていた。
俺は、ヒーローの『声』を聞いたことを思い出した。
『僕は命を懸けてママを守るヒーローになりたいです』
そう言っていたヒーローは、その翌日、本当にヒーローになった。
命を懸けて、母親の命を守ったのだ。
そのヒーローの『言葉』は、そのヒーローの存在は、俺の心の中に残り続けていた。
なあ、ヒーロー。
お前は、すごいヒーローだな。
本当に命を懸けて、ママの命を守ったんだもんな。
お前はもう遠いお空のお星さまになってしまったけれど、もしも聞こえるなら教えてくれ。
俺もママのために、命を懸けたら、ママの心は元気になるかな?
俺がヒーローと同じところに行ったら、壊れてしまったママの心は、元通りになるかな?
風が、強くなった。
今ここで、踏ん張るのをやめたら、俺は、ヒーローと同じところに行けるだろうか?
今ここで、踏ん張るのをやめたら……。
風はどんどん強くなった。
もう、諦めてしまおうかと思った。
その時だった。
突然風が止んで、声がした。
「荘太!」
この声を、聞き間違えるはずがない。
『……パ…パ…………?』
俺は、前方に駆け出した。
パパが、俺のところに来てくれた!
弟が生まれそうなこの時に、俺のために来てくれた。
俺は、要らない子なんかじゃない!
俺のことを、必要としているから、パパが来てくれたんだ!
再び突風が吹きつけてきた。
負けないぞ!
もう俺は、負けない!
この風に、流されない。
そうだ、俺には夢があるんだ!
俺は、家族と一緒に暮らしたい。
元気に家に帰って、ママと、パパと、おばあちゃんと、弟と、一緒に暮らしたい。
この夢は叶わない夢じゃない。
叶えて見せるんだ、絶対に。
流されるもんか。
流されてたまるか。
俺はあきらめない。
生きることを。
皆で暮らす明るい未来を。
それからしばらく向かい風に耐えていると、目の前に、光の筋が見えた。
これは?
この光が、俺を助けてくれるものなのか、俺を、天国へと誘うものなのかはわからない。
でもこの匂いに、覚えがあった。
だから怖くない。
きっと、大丈夫。
手を伸ばして光を追った。
もう少し、あと少し……。
この匂いが誰の匂いか、俺は答えを知っている。
『……ママ……』