ヒーロー
「ねえねえ、笹岡君」
先輩ナースに話しかけられて俺はナースステーションへと向かった。
「笹岡君って、公園の近くに住んでるでしょ?」
「あ、はい」
「あの辺で、不審者が逮捕されたらしいよ」
そう言うと、先輩ナースが新聞を俺に差し出した。
『笹岡不審者だったのか?』
『笹岡!逮捕する!』
不審者は俺のことじゃない!
心の中でベビーたちにツッコミながら俺は新聞を見た。
記事は、「凶悪レイプ犯、現行犯逮捕」という見出しで始まり、犯人の顔写真が載っていた。
「あっ!」
「え、笹岡君、知り合い?」
「いや、見たことがあるなって思っただけです」
それは、一か月ほど前に、翠先生が警察に連れて行こうとしていたあの男の写真が載っていた。
「翠先生、お疲れ様です」
「あ、笹岡君、お疲れ様」
仕事が終わると同時に俺は翠先生のもとへと向かった。
「今日の新聞読みました?」
「ん?」
「先生が一か月くらい前に捕まえようとしたアイツ、逮捕されましたね」
「へ、へぇ……そうなんだ……」
翠先生と一緒に病院を出たときに、俺の携帯が鳴った。
「もしもし」
「あ、兄貴?僕だけど」
電話をかけてきたのは、弟の雅之だった。
「どうしたんだ、急に?」
「今日から、兄貴の家に住むから」
「え?おい?どういうことだ?もしもし?もしもし?」
一方的に切られた電話を呆然と見つめていると、隣にいた翠先生が、首を傾げながらこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「あ、いや、あの、ちょっと……」
「何?もしかして彼女?彼女が家にやってくるのとか、そんな感じ?」
「違います!弟です!」
「なんだ、つまらない」
先生、さりげなく俺の心を傷だらけにするの、やめてください。
翠先生を駅まで送って行くことにした。
「先生、この公園で、この前女性が襲われる事件があったみたいですから、気を付けてくださいね」
「う、うん」
駅へ行く途中で、俺が住んでいるアパートの前を通り過ぎようとした。
「兄貴、お帰り……あっ!」
そこで、アパートの前で待っていた雅之が驚いた顔をしていた。
「あーっ!」
俺の後ろにいた翠先生が大声を上げて、思わず俺は振り返った。
「えっと、二人、知り合い?」
「昨日、僕、この人をレイプ犯から助けたんだ」
「え?」
っていうことは、あの犯人に襲われていたのは、翠先生?
雅之が実家を飛び出してから一週間がたった。
『笹岡。目の下、すごいクマだぞ』
『笹岡、クマ飼ってるのか?』
『私のおうちにもくまちゃんいっぱいいるもんね!』
俺が眠れぬ日々を過ごしているのには訳があった。
雅之が実家を飛び出したあの日、俺は、レイプ犯に襲われていたのが翠先生だったという事実を突き付けられると同時に、雅之が、翠先生を助けていたという事実を知らされた。
翠先生が襲われずに済んだということはとても喜ばしいことだ。
だが、問題はそこではないのだ。
「笹岡、昼休憩先に行ってこい」
主任に言われて、俺は食堂へと向かった。
廊下で、翠先生を見かけた。
「あ、翠先生……!」
「翠さん!」
俺の後ろから雅之が翠先生めがけて走って行った。
……どこから出てきたんだ?アイツ。
「雅之君、廊下は走らないの!」
「すみません、翠さんを見つけて嬉しくて」
注意しながらも翠先生もまんざらではなさそうだ。
「翠さん、お昼ごはん一緒に食べましょう!」
「あ、う、うん」
翠先生の視界に確かに俺の姿は入っていたはずなのだが、翠先生は俺の方を申し訳なさそうにちらりと見つめて、雅之について行った。
その様子を見て俺は、これまでの人生を思い出した。
俺が恋心を抱いた女の子は、たいてい俺と付き合う前に雅之のことを好きになり、雅之の恋人になっていった。
これは、いつものパターンのような気がする。
確かに、雅之の方が顔もいいし、頭もいいし、運動もできるし、身長だって高いし、全体的に優れていると思う。
しかも今回は、雅之が翠先生のピンチを救ったのだ。これで翠先生が恋に落ちないはずがない。
雅之も雅之で、翠先生を助けた一件で、警察の人と関わって、小さいころからの警察官になりたいという夢をやはり諦められないと確信したようだった。
実家を飛び出すほどの覚悟なのだ。
そんな覚悟を決めるきっかけを与えてくれた翠先生に、雅之は今までになく惹かれているようだった。
それが翠先生でなければ、俺も喜んで応援したというのに。
何で、よりにもよって、翠先生なんだ?
俺にとって唯一、『声』の存在を認めてくれる女性は、俺の弟にとっても運命の人だった。
そして、雅之と翠先生が、どれほど進展したのか確かめる勇気を持てない俺は、毎日ひとり悶々と悩み、眠れぬ日々が続いていたのだ。
昼休みに一人で食事をとった俺は、中庭で翠先生と雅之が二人でベンチに腰かけているのを見つけて、胸を軋ませながら、NICUに戻ってきた。
『おい笹岡』
そして、最初に顔を合わせた荘太がおもむろに俺に話しかけてきた。
『最近、眉間にしわを寄せすぎだ』
確かに、今までになく悩んでいるから眉間にしわもよってしまっているかもしれない。
『俺たちは、不安な顔や怖い顔をされたらやっぱりつらいんだ。何があったか知らないが、あんまり怖い顔するなよ』
荘太に言われて、ふと自分を見つめ直した。
ここ最近、確かに俺は、自分のことで頭がいっぱいになってしまっていた。
でも、荘太の言う通りだ。
一生懸命生きているこいつらに、辛い顔ばかり見せていてはいけない。
このもやもやした想いにケリを付けなければ。
『笹岡!気を付けて帰れよ!』
『おい、そっちは出口じゃないぞ!』
『やっぱりアイツ、ボケ老人だ!』
ベビーたちに指摘されたが、俺は無視して歩いて行った。
向かった先は産婦人科病棟。
俺は、いつもの俺に戻るために、決着をつけなければ。
ちゃんと、翠先生のことは諦めて、雅之と翠先生を祝福しなければ。
病棟に入ると、すぐに翠先生の姿が見えた。
「先生」
「笹岡君、どうしたの?」
「あの、俺……」
「何でそういうこと言うの?」
俺の言葉は遮られた。
その突然の怒鳴り声に、俺も翠先生もそちらを向いた。
その声は、すぐ近くの病室から聞こえてきていた。
「ねえ、大ちゃん、何でそういうこと言うの?大ちゃんは、元輝のこと、諦めるの?」
「なあ、葵、今だったら、葵も助かって子宮も温存できるらしいんだ!でも、元輝は諦めなきゃならないんだ!」
どうやら夫婦で言い争っているらしい。
「私は元輝を諦めたくない!だって、元輝は私を選んだんだよ!ここにいるんだよ!諦めたくないよ!」
病室に看護師が集まってきた。
「俺だって、元輝を諦めたくない!」
「じゃあ、何で?」
「このままじゃ、二人ともダメになるんだ」
旦那さんらしい男性の声は、涙まじりに聞こえた。
「私は命を懸けてでも産むの!そう決めたの!もう、いい!大ちゃんなんか、知らない!帰って!……帰って!」
ドアが開き、姿を見せた男性は再び振り返った。
「葵、俺は、二人ともを失いたくない。それだけは、わかってくれ」
そして、男性はしばらく哀しげな瞳のまま部屋の中を見つめた後、帰って行った。
部屋の中からは妊婦の嗚咽が聞こえていた。
「先生、今の人って」
「うん。腫瘍の権威の先生なら、二人共を守る方法を見つけてくれるかと思って、回してみたんだけど、やっぱり結論は同じだったんだね」
あの部屋の妊婦には腫瘍ができていて、おなかの中の子を諦めて治療すれば、完治するとの見解を旦那さんは伝えられたのだろうと翠先生は言った。
不意に、翠先生は立ち上がった。
そして、あの部屋に入って行った。
あの部屋からは、いつの間にか妊婦の泣きじゃくる声は聞こえなくなっていた。
しばらくして、翠先生が部屋から出てきた。
「あの、先生」
俺は、ここに来た本題を思い出して、先生の目を見つめて話しかけた。
「どうしたの?」
「いや、あの、先生って、前に俺が……」
「?」
その時、俺が、黙ってしまったのは、先生に振られるのが怖くなったからじゃない。
『声』が聞こえてきたからだ。
『ママ、僕の『声』、聞こえてるかな?
僕の『想い』、届いてるかな?
聞こえていたら、嬉しいな。
届いていたら、嬉しいな。
ママに一つだけ、お願いがあります。
僕のお願い、聞いてください』
それは、あの部屋から聞こえてきた。
「笹岡君、どうしたの?」
不思議そうに聞く先生に、俺は答えた。
「あの部屋から、『声』が聞こえるんです」
俺の耳には、『声』が聞こえ続けていた。
『ママ、僕ね、気付いていたんだ。
ママの中で悪い奴らが増えてること。
僕ね、一生懸命戦ったんだ。
でもね、あいつらはずっと増え続けて、僕の力じゃ敵わなくて、すっごく、すっごく、悔しかったんだ』
そして俺は、聞いたままを、翠先生に伝え続けた。
『ママ、ここには、あいつらをやっつける秘密兵器があるんだって、すごいよね!すごいよね!
でもね、ママ、
秘密兵器は強すぎて、僕もやっつけられちゃうみたいなんだ。
僕は、お外に出なきゃいけないけれど、
僕、まだ、お外に出る準備ができていないんだ』
この子はわかっている。
外に出てくるということはすなわち、死を意味するいうことを。
『ママ、僕の『声』、聞いてください。
僕の『想い』、聞いてください。
ママ、ありがとう。
僕に、命を授けてくれて、ありがとう。
僕を、宿してくれて、ありがとう。
僕に、素敵な名前を付けてくれて、ありがとう。
僕のために、泣いてくれて、ありがとう。
僕のために、命を懸けるって言ってくれて、ありがとう。
僕のことを、愛してくれて、ありがとう。
僕は、ママの子供で幸せです。
僕は、ママが、大好きです。
だから、僕は、決めたんだ。
僕は、ママに、お願いがあります』
ちょうど看護師は出払っていて、ナースステーションには俺と翠先生しかいなかった。
そんな中、俺は、ベビーの『想い』を翠先生に伝え続けた。
その『想い』を、彼の母親に届けるために。
『ママも僕のこと、大好きだったら、僕のお願い、聞いてください。
僕は、パパみたいなヒーローになりたいです。
だから、ママ、悲しまないで聞いてください。
僕は、パパみたいなヒーローになりたいです。
だから、ママ、僕をお外に出してください。
僕は、パパみたいなヒーローになりたいです。
だから、ママ、僕を、ヒーローにしてください。
パパみたいに皆を守れない代わりに、
僕は、ママを守るヒーローになりたいです。
パパみたいに悪い奴らと戦えなかったけど、
僕は、ママのために命を懸けるヒーローになりたいです。
ママに、この『声』が聞こえていたら、
ママに、この『想い』が届いていたら、
僕のお願い、聞いてください』
そこには小さなヒーローがいた。
自分の命と引き換えに、お母さんを守ろうとするヒーローがいた。
「笹岡君、教えてくれて、ありがとう」
先生は、そう言うと、ナースステーションから出て行った。
そして、その翌日、彼はヒーローになった。
「翠先生、あの子のお母さん、ごねたりしなかったんですか?」
「それがね、夢で、あの子の『声』が聞こえたみたいなの。笹岡君が言ったのと同じようなこと、言ってたよ」
「そうなんですね、ところで先生……」
「あ、そうだ!私、昨日、雅之君に告白されたよ」
「!」
「でも、振っちゃった」
「え?なんで?」
「私、もっと好きな人がいるから、ね」
翠先生はそう言って、俺の鼻をつまむと、笑顔で手を振って去って行った。
先生、俺、期待しても、いいんですか?