儚い約束
NICUに配属されて二日目の朝を迎えた。
今日は朝から何だか空気がピリピリしている。
「皆おはよう。手の空いた人から集合!」
そう感じるのは、昨日は休みだったこの主任がいるからかもしれない。
「今日ここに、新人看護師がオリエンテーションに来る。その中に問題児が二人ほどいるらしいんだが、誰か何か聞いているか?」
朝から空気がピリピリしているのは、今日ここに、問題児が来るからに違いない。
「オペ室で清潔のものを素手で触ったそうです」
「何?皆、触られて困るものは極力隠せ!」
何だか主任は、隊長とでも言いたくなるような人柄だ。
「病室のベッドで勝手に寝ていたそうです」
「居眠りしやがったら、保育器に押し込んでやろう。他には?」
「ICUで何百万もする機械を壊したそうです」
「何だと?山口ちゃんを一番奥に隠せ!って、もう既に一番奥にいるじゃないか!」
「山口ちゃん」というのは、つい最近入院してきたベビーで、一番状態が悪いらしく、一番高価な機械に繋がれている。
「うーん、そうだな、そこのお前、そうそう笹岡、お前、あそこで山口ちゃんを見張ってろ!」
「あ、はい!」
危ない、思わず敬礼するところだった。
隊長、もとい、主任を怒らせると怖そうなので、俺は言われた通りの持ち場についた。
『今日は、笹岡は私の担当なの?』
山口ベビーはきょとんとしていた。
「今日はここで、お姫様を守るんだよ」
『お姫様が来るの?』
山口ベビーは目をキラキラ輝かせている。
違うのに。
『違うよ、山口。悪魔みたいに悪い奴らから山口を守るように言われてきたんだよ』
俺が弁解する前に、隣のベッドの佐倉ベビーが山口ベビーに教えていた。
『わぁ、頼もしい!』
「そうか、頼もしいか!」
「笹岡君、何都合よく山口ちゃんのセリフ、ねつ造してるの?」
先輩ナースたちのツッコミを喰らって、俺は、ここにいる自分以外の大人は、『声』が聞こえなかったことを再認識した。
気を付けなければ。
『ねえねえ、荘ちゃんから聞いたんだけど、笹岡って私たちの『声』、聞こえるんだよね?』山口ベビーは嬉しそうに言った。
普通に答えると、怪しまれそうなので、俺は頷いた。
だが、山口ベビーの反応はない。
あ、そうか、まだ目があまり見えないのか。
それじゃあ、怪しまれてでも話すしかないのか?
『そうみたいだよ』
俺が思い悩んでいると、佐倉ベビーが代わりに伝えてくれた。
佐倉ベビーは、面倒見のいい子だ。
確か先輩ナースたちも、本当に必要な時しか泣かないから助かると褒めていた。
俺に『声』が聞こえることを確認した山口ベビーはさらに嬉しそうにつづけた。
『本当なんだ!それじゃあ、私もまだここに来たばかりだけど笹岡はもっと来たばかりだから、私が色々教えてあげるね!』張り切って言った山口ベビーは急にもぞもぞしだした。
『でも、その前にオムツ替えて!』
「お?オムツか、任せとけ」
オムツの替え方は昨日先輩ナースと荘太から徹底指導されたから大丈夫だ!
今日の俺の業務は、こんなに楽でいいのだろうか?
そう思うほどに俺は、山口ベビーの傍らに座ったまま、ほとんど何もしていなかった。
傍から見ると俺はぼうっとしているだけにしか見えない。
『荘ちゃんは、みんなのお兄さんでね……』
『さやかちゃんは、みんなのムードメーカーなの……』
だが実際は、山口が一生懸命皆のことを話すのを聞きながらぼうっとしていた。
『皆がシャッチョーって呼んでいる人は、本当は看護師長さんって言うんだって……』
『隊長って呼ばれているのは、主任さんって言うんだって……』
山口ベビーは、自分と一緒に入院しているベビーたちのことから、俺たち職員のことまで、事細かに説明してくれた。
俺の傍らにいるのは、まだ生まれて数日しかたっていない、とても小さくて、とても幼い命で、たくさんの機械がなければ呼吸もままならない命だ。
俺の傍らにいるそのベビーは、それでも皆のことを一生懸命知ろうとして、皆のことをたくさん考えて、しかもそれを俺に教えてくれていた。
自分のことだけで精一杯の自分が、何だか恥ずかしくなった。
あまりにも平和に時が過ぎ、今日はどうしてここにいるのかを忘れかけていた頃だった。
『それでね、私の隣の佐倉君はね……』
山口ベビーは、ベビーたちのことも、職員のこともほとんど話し終え、最後に佐倉ベビーの話をしようとしていた。
突然開いた扉。
パタパタと走ってくる足音。
噂の問題児が、現れたようだ。
「赤ちゃんちいさーい!」
「かわいーい!」
どうやら、噂の問題児で間違いなさそうだ。
君たち、あそこに手洗い場あったの、知っていますか?
君たち、入口のところにガウンがあったの、知っていますか?
君たち、せめてマスクくらいはしましょうよ。
「このかわいさ、マジ、ヤバくない?」
「ヤバいヤバい!」
君たちの言葉遣いの方がヤバいぞ、って、何か俺、歳取ったな。
って、こら!お前ら、素手でベビーに触れるんじゃない!
「ちょ、君たち……」
「あ、でも、あれとかさ、別の意味でヤバくない?」
俺の制止を無視して、問題児二人は、別のベビーの方へ歩み寄った。
「ホントだ、人間としてヤバい!」
「名前なんて言うの?」
「あ、山口って書いてある」
彼女たちが、指差し、ヤバいと言っているのは、山口ベビーだった。
「うわ!ありがち、ウケる!」
確かにありがちな名字だが、ウケるポイントがわからない。
「ていうか、あれ、マジ、グロくない?」
「グロいグロい!」
俺は思わず、立ち上がった。
「君たち、自分たちがお母さんのお腹の中にいるときだってこの子と変わらないのに、グロいとか言うなよ!」
「ちょっと、オジサン説教ですか?」
「マジ、ウザいんですけど?」
あの、オジサン、ウザいって言われたんで、ちょっとしばらく凹んでてもいいですか?
「ていうか、あんな姿に生まれるくらいなら死んだ方がましだし!」
「あはは、言えてる!」
こいつら、なんてこと!
パァン!パァン!
小気味のいい音がして、問題児二人は頬を押さえながら、俺、の少し手前に立つ主任を睨んでいた。
「お前ら!一生懸命生きている命に対して死んだ方がましとは何事だ!表へ出ろ!」
「ちょ、イタ!」
「何すんのよ、オバサン!」
そして、問題児二人は、耳を引っ張られるという非常に古典的な方法で、外へと連れ出されていった。
全員が静まり返った。
『笹岡、ありがとう』
沈黙を破ったのは、山口ベビーだった。
その『声』は、機械の音に、かき消されそうなほど小さな、泣き出しそうな『声』だった。
「俺も主任みたいに言えたらかっこよかったんだけどな」
俺は、努めて明るく答えた。
『笹岡も、かっこよかったよ』
『隊長の方がずっとかっこよかったけどね』
すかさず、山口ベビーの向かいのベビーが山口ベビーの『声』マネをして、ベビーたちはにやりと笑った。
『あんな奴らの言うことなんか、気にするなよ。山口は……』
『あいつら許せねえ!』
『あのメスブタ!私がもっと大きかったら往復ビンタを食らわせてたわ!』
『あいつらメスブタだ!』
『スブタだ!』
『しまった!おしっこひっかけてやればよかった!』
『あの距離じゃ無理でしょ』
『ボクのおしっこの飛距離をなめるなよ!』
『おしっこなんかなめたくないよ』
『なんだかイライラする!』
『それ、こーねんきってやつだよ!』
『とにかくあんな奴らの言うことなんか……山口?』
ベビーたちが好き勝手に『発言』している中、山口ベビーだけは黙り込んでいた。
『私って』
全員が、山口の消え入りそうな『声』に耳を傾けていた。
『死んだ方がまし、なのかな?』
俺も、ベビーも、誰もが言葉を失った。
静まり返ったNICUで、扉が開く音が聞こえた。
「あのオバサン超最悪!」
はい、超最悪なタイミングで、問題児二人が戻って参りましたよ。
「マジ、ピアスちぎれるかと思ったし!」
いっそ、ピアスちぎれてくれていたら、よかったかもしれないね。
「ていうか、赤ちゃんってマジ癒される!」
君たち、赤ちゃんに癒されたかったら、わざわざ新生児集・中・治・療・室に来なくても、産婦人科病棟の新生児室に行ってくれないかな?
二人を制止しようとした俺よりも早く、二人は駆け出して行った。
「あの子とか、可愛くない?」
二人が向かった先は、佐倉ベビーのもとだった。
「ホント、超かわいい!」
佐倉ベビーは、整った顔立ちをしているうえに、機械にほとんど繋がれていないため、顔がよく見えた。
しかも、あんまり泣いたりしない。
問題児め、賢い選択をしやがる。
俺は、下唇を噛み締めた。
ところが、二人の手が佐倉ベビーに伸びようとした時だった。
「んぎゃあ、んぎゃあ……!」
普段はめったに泣かない佐倉ベビーが、今までになく大音量で泣きわめき始めたのだ。
「ちょ、何この子!」
「空気読めてなくない?」
問題児二人は口々に言いながら、後ずさりした。
俺と、ベビーたちには、佐倉ベビーの『想い』が『声』として聞こえていた。
『お前らみたいな汚い奴らに触られてたまるかよ!』
確かに、手くらいは洗ってほしいものだ。
『山口のこと、馬鹿にするような汚い奴らに触られてたまるかよ!』
あ、そっちか。
『お前らは山口の何がわかってて死んだ方がましって言ったんだよ?』
普段はあまり感情を表に出さない佐倉ベビーが、怒りに震えていた。
『お前らは、山口が必死に生きてきた今までを見てきたのかよ?』
佐倉ベビーは、隣でずっと見ていたんだ。
『お前ら、山口よりずっと生きてて、山口みたいに必死に生きたことあるのかよ?』
山口ベビーが、一生懸命生きてきた日々を。
『お前ら、山口よりずっと生きてて、山口みたいに自分だってしんどいのに他人を気遣ったこと、あるのかよ?』
それでも山口ベビーが、皆のことを一生懸命気遣っていたことを。
『お前らみたいな汚い大人に山口を侮辱されてたまるかよ!』
隣でずっと見ていたからこそ、悔しかったんだ。
他のベビーたちは、はじめは佐倉ベビーの『声』を、ただ呆然と聞いているだけだった。
『僕は、僕の……』
『お前らやっぱり許せん!』
でも、佐倉ベビーの怒りの『声』で、ベビーたちの何かのスイッチが入ったようだった。
『山口ちゃんをブジョクするなー!おしっこひっかけてやる!』
『その距離じゃ無理だって』
『やろうと思えば何でもできる!』
『やろうとしなくていいから』
『あー!イライラする!』
一人、また一人とベビーたちが泣き出した。
『私の親友によくもひどいことを言ってくれたわね、このメスブタ!』
その裏では皆、一生懸命、問題児二人に抵抗していた。
『メスブタ!』
『スブタ!』
『ダー!』
『どうだ、見たか!山口ちゃんはボクらの癒しの女神なんだ!』
『スブタでかなうわけがないだろう!』
『お前らばっちいぞ!』
『お前ら、手も顔も洗って出直してこい!』
『帰れ!』
『二度と顔を見せるな!』
『帰れ!』
『帰れ!』
最終的に、泣き声の裏では『帰れ』コールが巻き起こっていた。
そんな中、山口ベビーだけが呆然としていた。
「ちょっと、皆大泣きじゃない、って、お前ら!」
一瞬、ベビーたち全員が驚きすぎて泣きやみそうになるほどの怒声が響き渡った。
「私たち、泣かせてませんけど何か?」
「その子達、勝手に泣いたんですよ」
主任に怒鳴られた瞬間に怯んでいたはずの問題児二人は、あっさりと本来のふてぶてしさを取り戻していた。
その立ち直りの早さは、別のところで発揮した方がいいと思う。
「あら、そうだったの?ところで、あなたたち、お話がまだ途中だったわね。こちらでゆっくりお話ししましょう。さ、いらっしゃい」
突然主任の声のトーンが何故だか一オクターブ上がり、丁寧に、そう言い切った後、主任は、問題児二人の腕をつかんでナースステーションの奥へと消えていった。
『あいつら、ザマアミロだな』
彼女先の行く末を見届けた荘太がぽつりと言った。
『あいつらが連れて行かれた場所は、このNICUで一番恐ろしい場所だ』
『説教部屋っていうんだよ』
ベビーたちはけろりと泣き止んで、説教部屋トークに花を咲かせ始めた。
『一度入ると最低二時間は出てこない』
長っ!
『そして中で何があったのかはだれも口を割ったことがない、謎、かつ恐怖の部屋だ』
今後、入ることがないよう気を付けたいところだ。
『今日、隊長キレてたから、長いよね』
どうやら、隊長、もとい主任は、キレると声のトーンが上がってやたらと丁寧語になるらしい。
気を付けよう。
『みんな、ありがとう』
ベビーたちの説教部屋トークがひと段落したとき、山口ベビーが『声』を発した。
その『声』はもう、消え入りそうなものではなかった。
『親友として当然のことをしただけよ』
『だって、あのメスブタ、許せなかったし』
『だって、あのスブタ、ばっちかったし』
『あ、おしっこひっかけてない!』
『いつまでそのネタで引っ張る気?』
皆がそれぞれに言っている中、山口ベビーはそっと囁くように、佐倉ベビーに言った。
『佐倉君も、ありがとう』
『僕は、山口に笑顔が戻ったらそれでいいよ』
佐倉ベビーは、照れくさそうにそう言うと、そっと目を閉じた。
山口ベビーは、俺にだけ聞こえるように、小さな『声』でそっと言った。
『佐倉君はね、私の一番大好きな人なの』
翌朝、俺がNICUに来ると、見たことのない看護師が二人いた。
まだ異動して三日目だから、見たことのない看護師がいても仕方のないことだ。
「あ、笹岡さん、おはようございます!」
「笹岡さん、おはようございます!」
って、なんか挨拶された!
「お、おはようございます」
反射的に挨拶を返してみたものの、この二人は誰だ?
そして何で俺のこと知っているんだ?
「昨日は大変失礼いたしました!」
え?昨日?俺、何かした?いや、された?
「私たち、心を入れ替えて、一生懸命頑張ります!」
心を入れ替えるも何も、君たち誰?
見知らぬ看護師二人は、深々とお辞儀すると、立ち去って行った。
呆然とする俺に、荘太が話しかけてきた。
『さっきの二人、昨日の問題児二人組だぞ』
え?問題児二人って……あの二人?
思わず荘太を振り返ると、荘太は続けて言った。
『あいつら説教部屋の最長記録を更新して、ついさっきまで説教部屋に籠ってたぞ』
さっきまでって、夜通し説教されていたのか?
それから何日かが過ぎ、佐倉ベビーは退院の日を迎えた。
『じゃあな』
『もうここには戻ってくるなよ』
『元気でな』
ベビーたちはそれぞれに、別れの『挨拶』をしていた。
『佐倉君』
山口ベビーが佐倉ベビーに話しかけた。
『寂しいけど、すごく寂しいけど、でも、おめでとう!元気でね』
母親に抱っこされながら、佐倉ベビーは山口ベビーを振り返った。
『山口、今日、僕、ママに名前を付けてもらったんだ。山口にだけ教えるね。僕の名前は保。佐倉保』
『保君、私も今日、ママに名前を付けてもらったの。紗代。山口紗代。忘れないでね』
『紗代、絶対忘れない』
『保君。私も忘れないよ。また、すぐ会えるよね?』
『すぐ、会えるよ。元気になって待ってろよ。絶対迎えに行くから』
二人のやり取りを聞いて、俺は、胸が締め付けられるような気持ちになった。
俺は知っているから。
赤ちゃんは、自分の口から言葉を発した瞬間に、『声』を失うこと。
そして、同時に、『声』を発していた時の記憶も失ってしまうこと。
俺は、聞いてしまったから。
保の家族は、保の退院と同時に、父親の仕事の都合で海外に行くことになっていること。
そして、しばらく日本には帰ってこないこと。
二人の記憶は失われてしまう。
二人の距離は、遠く離れてしまう。
それでも、願わずにはいられない。
二人が再び出会える奇跡を。
二人が再び愛し合える運命を。
いときりばさみのそんなにわかりやすくもない用語解説
・オリエンテーション……ここでは、新人看護師がいろんな場所を見て回ってくる的な意味合いで使用しています。
・オペ室で清潔のもの……手術中の患者さんの感染を予防するために滅菌してあるもの(滅菌は、すげえ加熱したり、ガスで何とかしたりして細菌とかを殺すこと)。めっちゃ手を洗って、清潔な手袋をした状態で触らなければならないもの。素手で触るのはダメ、絶対。
ICU…集中治療室をかっこよく英語にして省略した言葉。人工呼吸器をつけなければならない状態の人とか、手術後の人とかの、文字通り集中的な治療を要する人々が入院する場所。
ガウン…割烹着の長い奴みたいな形をしている、感染しやすい人に接するときや、重症な感染症がある人に接するときや、オペ何かのときとかに着ているイメージ。