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笹岡君の休日

 何だか、不思議な空気になっている。

 俺がNICUに入った瞬間から、やたらとベビーたちの視線を感じる。

 何だろう?この、責めるでも咎めるでもなく、緊迫しているというわけでもない、とにかく不思議な視線は。

 奴らの視線にどう対応していいかわからない俺の背後から、『声』が聞こえてきた。

『笹岡、バーカ!』

『笹岡、あほー!』

『笹岡、ボケ老人!』

『笹岡、老人!』

『笹岡、余分だぞ!』

『ササオカ、バカタレ!』

 何が悲しくて、俺はこんなに馬鹿にされているのだろう?

「笹岡君」

 看護師長が俺のところへやってきた。

「今日、お休みだと思うんだけど?」

 ん?

 勤務表を確認する。

 今日の休み……笹岡。

 さて、帰るか。


 急に休みになったところで特にやることもなく、病院の近くの公園を歩いていると、背後から声をかけられた。

「笹岡君!」

 翠先生、近いです。

 俺、これでも一応あなたに告白した男ですよ。

 河合さんの一件以来、翠先生は告白などなかったかのようにいつも通りに振る舞っている。

 気まずい関係のままでなくなったのは嬉しいのだが、告白を受け入れられたわけでも断られたわけでもない俺としては、気持ちの踏ん切りが、いまいちつかない。


 ベンチに座るなり、翠先生は五百円玉をこちらに差し出しながら言った。

「笹岡君、缶コーヒー二個、買ってきて!」

 そして、小悪魔スマイル。

 前にも、こんなことあったような。

 五百円玉を握りしめて駆け出した俺に、背後から「温かいやつね!」と翠先生の声が聞こえた。


 缶コーヒーを先生に手渡した俺は、先生の隣に腰かけた。

 目の前を幼稚園ぐらいの少女が父親と手をつないで笑顔で通り過ぎて行った。

「先生」

 その光景を見て何故か梓のことを思い出した俺は、ふと、先生に聞いてみようと思った。

「梓のお父さんって……」

「何で知ってるの?」

 先生が瞬時にそう言うと、勢いよく振り返った。

 ……何をですか?

 少しの間、振り返ったままの状態で固まっていた先生は、急に慌てふためいた。

「あ、い、今のナシ!今の発言ナシ!今の発言忘れて!さ、話、続けて!」

「梓が父親のこと、『パパ』じゃなくて、『オジサン』って呼んでたから、何かあったのかな、と思って」

 翠先生は、驚いたような、悲しいような、そんな表情でこちらを見ていた。


 しばらく呆然としていた翠先生は、急に真面目な顔になった。

 先生の顔が近づいてきた。

 先生、どどど、どうしたんですか?

 あ、あの、心の準備が!

 吐息がかかりそうなくらい近すぎる距離感のまま、翠先生は小さな声で囁いた。

「ねえ、聞きたい?」

 聞きたいって、告白の返事とかですか?

「梓ちゃんのパパのこと」

 そっちですか。

 そっちですよね。

 よかった、口に出さなくて。


 梓の父親のこと、確かに気にはなる。

「聞いても、いいんですか?」

「誰にも言わないって約束してくれるなら」

 俺は、先生の目を見て頷いた。

 先生は、目を閉じて、大きく深呼吸した。

 風の音以外、周りには何も聞こえない。

 ゆっくりと目を開けた先生が、真剣な面持ちで、こちらを向いた。

「梓ちゃんのパパ、不妊症なの」


 夫婦の間に赤ちゃんができない時、女性側に原因がある場合と、男性側に原因がある場合とがあるとは、どこかで聞いたことがあった。

 川嶋夫婦の場合は、旦那さんの精子に生殖能がないことが原因だった。

 旦那さんの精子では、どう頑張っても、子供は授からない。

 そして川嶋夫婦が選んだのは、精子バンク。

 本当の父親は、誰なのか、わからない。

 わかっているのは、精子提供者の血液型が、梓の父親と同じ、AB型だということだけ。


「私はね、あんなに張り切っているお父さんは、初めて見たの」

 翠先生は哀しげな表情のまま話し続けていた。

「私はね、あんなに頑張っているお父さんは、初めて見たの」

 俺が今までNICUで見た中でも、梓の父親は、一番、子供のために時間を割いていると思う。

「だから、幸せになってほしいの」

 そして、翠先生は俺の方を見た。

「だから私は、あの一家の秘密を守ろうって思っているの」

 それで、誰にも言わないように念を押していたのか。

「私が梓ちゃんだったら、真実は、他人の口からじゃなくて、お父さんやお母さんの口から聞きたいと思うもの」

 翠先生は、哀しげな表情をこちらに向けた。

「梓ちゃんのために、あんなに一生懸命になっているのに、それなのに、『オジサン』なんだね」

 朝の爽やかな風が吹き抜けて行った。


 風が吹く中、『声』が聞こえた。

『てめぇ、ジロジロ見てんじゃねぇぞ!海の藻屑にするぞ!』

 ええっ!0歳児なのに尋常じゃないこと言ってる!

『絢佳ちゃん、だめよ、女の子がそんな言葉遣いしちゃ』

 隣にいる子はまともなようだ。

 少し離れたところに二組の親子がいた。

 性格が全く正反対の二人のベビーはそれでも仲が良いようだった。

『惚れた!』

 木陰から、鈴村親子が現れた。

 鈴村は、どうやらまた、誰かに惚れたらしい。

『お、あっちにいるのは翠先生じゃないか!』

 目ざといな、あいつ。

『その隣にいるのは、あ、なんだ、笹岡か、なら、安心だな』

 何が、どう、安心なんだ?


 ふと、翠先生を見ると、翠先生は鈴村たちとは違う方向を見つめていた。

 翠先生につられてそちらを見た。

 何だか見たことのある老婆が友人らしき人物数人と話している。

『お、向こうにいるのは荘ちゃんのばあちゃんじゃないか!一回しか見たことないけど』

 鈴村君、説明ありがとう。

 君のその視力と、その記憶力は、ある意味すごいと思うよ。


 荘太の祖母たちの会話がこちらにも聞こえてきた。

「中山さん、お二人目はもうそろそろですの?」

「もう少し先でございます」

 すごい、セレブっぽい話し口調だ。

『ねぇ、絢佳ちゃん、オレの彼女にならない?』

 鈴村、そっちに惚れたのか?

『あたい、あんたみたいなガキにはキョーミない』

 しかも、フラれた!

 今、鈴村が告白しようとフラれようと、かなりどうでもいいのだが、奴らの『会話』は、勝手に聞こえてくる。


 セレブ達の会話もまた、耳に入ってくる。

「一人目の子のことがありましたでしょう?だから、あまり無茶させないようにしておりますのよ。家からもなるべく出ないように言いつけておりますし」

 そんなことしたら、荘太の母親は、荘太に会いに来られないじゃないか!

「またあんな風になってしまってはね、あら、失礼」

 それは、いくらなんでもひどすぎないか?

 あんなに荘太は頑張っているのに、まるで、荘太が失敗作みたいに!

『じゃあさ、栞ちゃん、オレの彼女にならない?』

 そんなことはお構いなしに、向こうで、あきらめの悪い鈴村がいる。

 どうやら、絢佳と一緒にいた清楚な雰囲気の女の子は栞というらしい。

『さすがに私にもプライドってものがあるの。ごめんなさい』

 そして、あっさりフラれていた。


「あら奥様、気になさらなくてよろしいですよ」

 荘太のばあちゃん、荘太があんなこと言われても許せるなんて、寛大だなぁ。

「あのような出来損ないの子供、中山家の跡継ぎにするつもりなど、髪の毛ほども御座いませんでしたから」

 老婆の高笑いが聞こえた。

 何言ってるんだ、このばあさん?

 荘太は、あんなに頑張っているのに、何言ってるんだ、このばあさん?

 荘太は本当に頑張っている奴で、荘太は本当にすごい奴で、荘太は本当にいい奴なのに、何言ってるんだ、このばあさん!

 怒りが抑えられなくなった俺は、ベンチから立ち上がった。

 同時に、隣にいる人物が立ち上がった。

 ん?

 隣にいる、翠先生のほうを向いた。

 同じようにこちらを見た翠先生と顔を見合わせる形になった。

 先生、ここで怒っても、たぶん怪しまれるだけですよ!

 って、俺も同じか。

 冷静になった俺は、何だか脱力して元のベンチに腰かけた。

 そして俺が座った時、隣の翠先生も座ったようだった。

 またしても、行動がかぶった。

 恐る恐る、翠先生のほうを横目でちらりと見ると、同じようにこちらを見た翠先生と目があって、たまらずに笑い出してしまった。

 隣で翠先生も大爆笑している。

 ふと、前方を見ると、二人の母親が、それぞれの娘を連れて、帰っていくところだった。

 金髪で昔は暴走族でもやっていそうな雰囲気の母親が、おしとやか娘栞を、黒髪で、清楚な感じの母親が、やんちゃ娘絢佳を連れていた。

 逆じゃないのか?

 大丈夫なのか?


 その頃、耳障りな高笑いをやめた荘太の祖母とその取り巻きのセレブ達も、公園の出口へと歩いて行っていた。

「先生、怒りにいかなくてよかったんですか?」

 俺は、翠先生の顔を覗き込んだ。

「笹岡君こそ!」

 そして、二人でまた笑いあった。

『またフラれた!』

 遥か彼方で、一人取り残された鈴村が泣いていた。

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