小さな願い
『今日も翠先生来ないね』
『お腹痛いのかなあ?』
ベビーたちの何気ない『会話』が、俺の心を抉った。
あの告白以来、翠先生はNICUになかなか来なくなってしまった。
気まずくした原因は俺だから仕方がないのだけれど。
崇の写真の一件では多少会話もしてくれたから、もしかしたらと期待したのだが、世の中はそんなに甘くはなかった。
もともと、翠先生がNICUに来るようになるまでは、そんなに会う機会もなかったのだから、翠先生が来なくなれば俺と翠先生が顔を合わせることなんてほとんどない。
『おーい、笹岡、オムツ替えてくれ!』
それでも、俺の個人的な事情で、ベビーたちに八つ当たりしてもどうしようもないので、俺はいつも通りに仕事をしていた。
そんな時だった。
『ママ!』
誰かの『声』がした。
『ママ!ダメ!死なないで!』
それは、NICUのベビーたちが発した『声』ではなかった。
『誰か、誰かママを助けて!』
この『声』は、どこから?
『おい、笹岡!』
荘太が話しかけてきた。
『たぶん、あっちの方角は産科病棟だ!』
産科病棟?
『ママ!死なないで!誰か!気付いて!ママが死んじゃう!』
俺は駆け出した。
『ママが死んじゃう!誰か、助けて!』
真剣な『声』の方向に向かうと、やはりそこは産科病棟だった。
ママが死んじゃうって、どういうことなのだろう?
そして、今さらになって俺は少し冷静になった。
勢いよく飛び出してきてしまったものの、俺は、翠先生以外の産婦人科医とも、産科病棟のナースともほとんど面識がない。
果たして、その訴えを伝えたところで信じてもらえるだろうか?
ナースステーションを覗くと、翠先生の姿が見えた。
一人の妊婦の命がかかっているのだ。
ここは一か八か、翠先生に言ってみるしかない。
翠先生の近くまでやってきて、そのそばにしゃがみ込んだ。
「笹岡君?」
ものすごく、驚いた様子で翠先生が俺を見ていた。
『ママ!ママ!しっかりして!死なないで!』
俺は、先生の目を見つめた。
「今、ものすごい『声』が聞こえているんです」
「どんな?」
翠先生は、真剣眼差しになった。
「『ママ!死なないで!』って、さっきからずっと、NICUにまで聞こえるくらいの『声』が聞こえるんです」
翠先生は立ち上がった。
「『声』は、どこから?」
「近づけば、大きくなるので、わかると思います」
「案内して……早く!」
『声』の聞こえる方向に翠先生を案内していった。
『ママ!死なないで!ママ!しっかりして!ねえ!ママ!お願い!』
そして、俺たちはシャワールームの前までやってきた。
シャワーの音がドア越しに聞こえる中、ベビーの『声』が聞こえ続けていた。
『誰か!ママを助けて!ママ!死んじゃダメ!』
「河合さん!いるの?返事して!」
翠先生がドアをノックしながら必死で話しかけているが、応答はない。
『翠先生?翠先生!ママが死にそうなの!ママを助けて!』
翠先生の声に気付いたベビーが必死に訴えた。
「河合さん、開けますよ!」
その『声』は聞こえていないはずなのに、翠先生は、患者さんの身の危険を察知したのか、カギをこじ開け、ドアを開けた。
ドアを開くと同時に、翠先生は中へと入って行った。
そして、恐らく翠先生が鳴らしたのだろう、緊急呼び出しブザーの音が、聞こえてきた。
「笹岡君、人を呼んで、今すぐ!」
翠先生にそう言われ、シャワールームを振り返った俺の視界の端に、シャワールームの床が見えた。
真っ赤に血に染まった床。
ベビーのお母さんに何があったというのだろうか?
人を呼んで戻ってくると、そこはすでに人が集まっていた。
『ママ、死なないでね。ママ、生きてね』
俺の脇を通り過ぎて行ったストレッチャーから、あの子の、心配そうな『声』が聞こえていた。
『おい笹岡、さっきの子のママは、大丈夫だったのか?』
NICUに戻ってきた俺に、荘太が心配そうに聞いてきた。
「とりあえず、翠先生に伝えたけど、その後どうなったかまでは見てない」
『後で、様子見に行って来いよ』
気になるんなら自分で見てこいよと言うわけにもいかず、俺は頷くことしかできなかった。
一日の仕事が終わった俺は、産科病棟へと歩いて行った。
荘太に言われたからというのもあるが、俺自身、あのベビーとそのママの行く末が気になったことも事実だ。
産科病棟の入口へと来たところで、翠先生と鉢合わせた。
「あれ?笹岡君!」
「先生、今日のあの人って?」
「ICUに行ったよ。今から様子を見に行こうと思って」
「俺も、一緒に行かせてください」
ICUに近づくにつれて、女性の叫んでいるような声が聞こえてきた。
そして、だんだんとその内容が明らかになってきた。
「何で死なせてくれないの?何で死なせてくれなかったの?」
妊婦の叫んでいる内容が聞こえたからかもしれない。翠先生が立ち止まった。
その時、俺には彼女のお腹の中の赤ちゃんの『声』も聞こえていた。
『ママ、僕は生きたいよ!』
死にたいという母親のお腹の中で、赤ちゃんは生きたいと叫んでいた。
「生きてたくないの!死にたいの!死にたいの!ねえ、死なせてよ!私は生きても意味がないの!私は、汚れてるの!」
『ママにも、生きてほしいよ!』
死にたいと泣き叫ぶ妊婦のおなかの中では、赤ちゃんが生きてほしいと叫んでいた。
「河合さん、落ち着いて!」
誰かが叫ぶ声が聞こえたが、妊婦は暴れているようだった。
『ねえ、ママ、聞いて、ママ!』
そんな中、おなかの中の赤ちゃんは、必死でお母さんに話しかけていた。
哀しげな瞳で振り返った翠先生と目が合った。
「誰か、私を殺して!お願い、もう生きていたくないの!」
『僕は、ママと生きたいんだ!』
翠先生は、立ち尽くす俺をじっと見つめた。
「笹岡君、何か、『聞こえて』いるの?」
俺はしっかり頷いた。
その『言葉』、その『想い』を、伝えなければならないと思った。
『ママとじゃなきゃイヤなんだ!』
「何て言ってる?」
俺は、聞いたままを翠先生に伝えた。
『ねえ、ママ!お願い、聞いて!』
そんな中、妊婦の叫ぶ声は聞こえ続けていた。
『ねえ、ママ、ママ……!』
俺の話を聞いていた翠先生は、急に駆け出した。
そして、脇目も振らずに妊婦の元へと駆け寄った。
「いい加減にしなさい!」
翠先生のあまりの勢いに、その怒鳴り声に、そして、すさまじいビンタに、その場の全員が凍りついた。
翠先生は、頬を押さえながら呆然としている妊婦の胸ぐらをつかんで、その目を見つめた。
「あなたは、自分のことしか考えてない!」
先生の手が、怒りのためか少し震えているのが見えた。
「今、あなたが命を絶つことで、あなたは一つの命を殺すことになるのよ!」
妊婦は、はっと気づいたようにお腹に手を当てた。
翠先生は妊婦の胸ぐらから手を放し、彼女の肩を掴んだ。
「お腹の子は、あなたを選んだのよ!他の誰でもない、あなたを選んだのよ!あなたと一緒に、生きたいと願っているのよ!」
ぼろぼろ涙を流しながら、翠先生は妊婦に叫ぶように言った。
「あなたは、お腹の子供の願いを、無視するの?」
『僕は、ママと生きたいんだ!ママとじゃなきゃイヤなんだ!』
先生は、あの子の『想い』を、あの子の『願い』を伝えようとしてくれているんだ。
翠先生は、妊婦のお腹にそっと手を当てた。
「お願いだから、生きて」
そして、真剣に彼女の瞳を見つめながら言った。
「生きてください、お腹の子と一緒に」
次の瞬間、妊婦の目から涙が溢れだした。
「ごめんね……」
涙を流しながら妊婦はお腹をさすり始めた。
「ごめんね、自分のことしか考えていなくて」
その様子を見て、翠先生が穏やかに頷いていた。