幸せを……
「あ、いや、えっと、あ、あの、あと、ボタン掛け違えてます!」
俺はしどろもどろに言った。
「あ、あれ?ホントだ!ありがとう!」
翠先生は、そう言うと、ドアにぶつかりながら出て行った。
『笹岡、告白か?』
『とうとう言っちゃったか!』
『やっちまったな』
『ドンマイ』
『ドンマイ』
『元気出せって』
『フラれたからってヤケになっちゃだめよ』
一応、まだ、フラれてない。
まあ、時間の問題か。
ベビーたちが俺をからかうのに夢中になっているうちに採血担当の小児科医がやってきた。
今日、小児科医の人数がやけに多い。
見慣れない先生までいる。
たくさんの小児科医が一番に向かった先を見て、俺は今日が何の日か思い出した。
今日は、崇のオペの日だ。
一番最初に採血をされて大泣きをした崇は、涙が収まるとともに、話しかけた。
『ねえ、さやかちゃん』
大好きな、さやかに。
『昨日の夜の話、聞いてたよね』
え?
『……』
『聞いてたでしょ?さやかちゃん』
少し黙っていたさやかは、観念したかのように、短いため息をついて言った。
『崇には、ウソ寝してもバレちゃうのね』
『もちろんだよ』
ということは、昨晩の崇の告白を、さやかは聞いてたってことか?
『崇、あたし……』
『さやかちゃん!』
さやかの言葉を遮るように崇が話し始めた。
『ボク、絶対元気になって戻ってくるから、だから、戻ってきたら返事を聞かせて!』
手術室に行く準備が整い、崇のベッドが動き出した。
『崇!』
さやかが叫んだ。
さやかが何かを言うよりも早く、崇はベッドごとNICUから連れ出されていった。
長い一日だった。
崇のオペだけでなく、ベビーの緊急搬送やら、母体搬送やらが相次ぎ、人手不足のために、夜勤明けの俺も帰れずに、とうとう夕方になってしまった。
崇のオペが終わったようだった。
ナースステーションの電話が鳴った。
果たして、手術は成功したのか?
俺は、その結末に気付いていた。
電話が鳴るよりもずっと前から、崇の『悲鳴』が聞こえていたから。
『うわぁぁぁぁぁっ!』
その『悲鳴』がどういうものなのか、知っているベビーもいる。
さやかも、その一人だ。
今は、衝撃のあまりに言葉になっていないようだった。
『死にたくないよ、死にたくないよ……』
俺は、この状態から助かったベビーを、一人も見たことがない。
それでも、奇跡が起きることを、信じたい。
崇の両親がNICUに入ってきた。
『パパ、ママ、生きたいよ、もっと一緒にいたいよ!』
崇、生きてくれ!
さやかの返事を聞くんだろ!
元気になって戻ってくるって言っただろ!
『崇、頑張れよ!』
『崇くん、生きて!』
ベビーたちは一生懸命、崇を励ましている。
『死にたくないよ、死にたくないよ……』
それでも、崇の『悲鳴』は、止まない。
『崇、死ぬな!』
『崇、諦めるなよ!』
『うわぁぁぁぁぁぁっ!』
必死の心肺蘇生が続いている。
『崇、あたし……』
さやかが何か言おうとした。
ちょうどその時、小児外科医が纐纈に何か耳打ちした。
そして、纐纈が崇の両親に話しかけた。
「大変申し上げにくいのですが」
その表情は暗い。
「これ以上続けても回復の見込みは……」
その時だった。
『さやか!』
『悲鳴』を上げながら、崇が力いっぱい叫んだ名前は、ママでもパパでもなく、さやかだった。
さやかが一瞬ビクッと動いた。
『さやか!ボクの分まで生きて!』
崇は気付いたのだ。
『世界一幸せになって!』
自分の命の灯火が消えようとしていることに。
隣のベッドのさやかは静かに泣いていた。
蘇生の手が止まった。
両親は泣き崩れた。
崇の両親の嗚咽が響き渡るNICUで、崇の『声』が心に響いた。
『パパ、ママ、ボク生まれてきて幸せだったよ』
崇は、最後の力を振り絞り、一言一言『言葉』を綴った。
『さやかに出会えて、幸せだったよ』
さやかはじっと、崇の『声』を聞いていた。
『さやか、ボクは、君の幸せを……』
ピー
無情に鳴り響く機械音。
午後六時二十三分、湯川崇は一か月足らずの短い生涯に幕を降ろした。
いときりばさみのわかりにくい用語解説
・『ボク、絶対元気になって戻ってくるから、だから、戻ってきたら返事を聞かせて!』……完全なる死亡フラグ
・ベビーの緊急搬送……生まれてきたベビーや入院中のベビーに、高度な医療や専門的な医療を要する場合に搬送されてくる者の中でも緊急を要するもの。
・母体搬送……出産すると母親または児、あるいはその両方の命が危なかったり、高度な医療などを要する場合に母親を搬送すること。そのまま産む流れになりと、さぞ忙しいことでしょう。
・心肺蘇生……心臓マッサージとかをすることで、心臓が止まらないように頑張ること。