想いよ、届け
「あら、紗代ちゃん、今日はゴキゲンさんだねぇ」
『翠先生、私、すごく元気になったよ!遊んで!』
翠先生は、たまにふらっとNICUのベビーたちの様子を見に来ることがある。
最近は、写真を撮りに来ることもあるせいか、その回数が増えた気がする。
「……」
「笹岡君?」
「あ、すごく元気になったよ、遊んでって言ってます」
「そっかぁ、元気になったかぁ。あんなに小さかった紗代ちゃんがこんなに大きくなって、元気になったんだもんね」
そして、俺は、相変わらず『通訳』をさせられている。
それがだんだん苦にならなくなったのは、翠先生が、きっと、『声』の存在を本当に信じてくれていると思えたから。
だから、翠先生がこうしてNICUに足を運んでくれることが、俺にとってはすごく嬉しいことになっていた。
「ねえ、笹岡君」
でも、たまに、その近さが心臓によくありません。
「NICU出る前に、もう一度荘ちゃん見てっていい?」
「どうぞ」
その、小悪魔スマイルも。
荘太の顔を見た翠先生は満足そうな足取りで去っていった。
その晩、当直だった俺は、崇のそばの端末で記録の入力をしていた。
『ねえねえ』
ふいに崇が『声』を発した。
『笹岡って、翠先生のこと、好きなの?』
急に、直球な質問来ましたけど?
『笹岡、翠先生と話してるとき、すごく楽しそうだけど、翠先生のこと、好きなの?』
黙っている俺に、崇が再び聞いてきた。
確かに、翠先生といるのは楽しい。
翠先生は、俺にとって、かけがえのない存在だ。
この想いになんという名前を付けるべきか、俺は、知っている。
でも、その想いに、名前を付けてはいけない。
その想いを、認識してはいけない。
相手は敏腕美人産婦人科医。
そして俺はヘタレ看護師。
叶うはずなどない想いに、名前は付けてはいけない。
『翠先生に好きって言わないの?』
答えに困っている俺に、さらに崇が質問してきた。
「言えるわけないだろ、そんなこと」
それを言ってしまったら、その気持ちを伝えてしまったら、今までの関係がなくなってしまうかもしれない。
俺には、そんな勇気はない。
俺は、知ってしまったから。
『声』の存在に耳を傾けてくれる存在がいることの喜びを。
その存在の大切さを。
『ボクは、好き、の気持ちはちゃんと伝えたい』
崇の『声』が心に響いた。
『それは、ボクにとって特別な、好き、だから』
特別な、好き……か。
家族とも友達とも違う、特別なその気持ち。
大きくなったら、人はそれを恋と呼ぶのだ。
『ボクは、今を生きているから、今の気持ちを伝えたいんだ』
今の気持ち……。
『ボクには、今しかないから』
心臓が悪い崇だけではない。誰だって未来の確約などない。
『だから、伝えたいんだ。伝えなくちゃいけないんだ』
だから……伝える。
『離れ離れになる前に』
夜のNICUは静かに更けていた。
俺以外の当直看護師はナースステーションで看護記録をまとめていた。
ベビーたちも寝静まり、起きているのは崇だけだった。
静かなNICUに、崇の『声』だけが響き渡った。
『ボクは、さやかちゃんのことが、好きだよ』
崇の隣のベッドで眠るさやかは、退院を来週に控えていた。
『ねえ、笹岡は、好きの気持ち、伝えないの?』
崇が俺に問いかけた。
「どう……したいんだろうな?」
俺も俺に問いかけた。
やがて、崇も眠りについた。
静けさの中に、一人取り残された俺は、心の中で崇の言葉を反芻した。
今を、生きているから。
今しかないから。
今の、俺の想いは……。
夜が明けた。
「皆、おはよう!」
翠先生が早朝から現れた。
寝ぼけていたのか白衣のボタンを掛け違えている。
ていうか先生、勤務先は産婦人科ですよね?
『笹岡、言わないの?』
崇が俺に言った。
俺は、昨晩の崇の話を思い出した。
俺は……。
俺の今の想いは……。
「翠先生、好きです!」
翠先生が、びっくりした様子でこちらを見た。
起き始めたベビーたちも、驚いているようだった。
『笹岡?』
あれ?なんで、崇がきょとんとしてるんだ?
だって、崇が……。
『ボタン掛け違えてるって教えてあげないの?』
そっちか!