『遺言』
『あ、翠先生だ!』
『翠先生、私に会いに来たの?』
『僕に会いに来たんだよ!』
翠先生は相変わらず、NICUによくやってくる。
『翠先生、今日は写真しないの?』
「笹岡君、この子は何て言ってる?」
「『翠先生、今日は写真しないの?』って言ってます」
そして、相変わらず、俺に『通訳』をさせている。
「今日はカメラ忘れてきちゃったのよ!じゃあ、この子は?」
『翠先生、今日のパンツ、何色?』
って、そんなこと、聞けるか!
「……『翠先生、元気?』って、言ってます」
一瞬黙り込んだ翠先生は、そのままその隣のベビーを覗き込んでいた。
『おい、笹岡、何でパンツの色聞いてくれないんだよ!笹岡だって、聞きたいんだろ?』
聞きたいけど……って、コラ!そんなこと、聞けるわけないだろうが!
「さてそろそろ帰るか!」
翠先生がそう言った時、遠くからあるものが聞こえてきた。
それは、『悲鳴』だった。
『うわぁぁぁぁぁぁ!死にたくないよ!死にたくないよ!誰か助けて!』
どこかで、一人の赤ちゃんの命が消えようとしている。
心なしか、『悲鳴』はこちらに近づいてきている気がする。
「どうしたの?」
翠先生に聞かれて、俺が答えられないでいるうちに、翠先生のPHSが鳴った。
「はい、谷岡で……え?うん、わかった、今いく!」
翠先生は、そのまま駆け出して行った。
『死にたくないよ!助けて!ママ!死なないで!』
『なあ、笹岡』
荘太に話しかけられ、俺は振り返った。
『今、翠先生が行った先に、死にそうなアイツが来るんじゃないか?』
俺も、そんな気がしてならなかった。
『ママ!泣かないで!ママ!悲しまないで!ママ、大好きだよ!泣かないで!』
今にも死に絶えそうな命は、『悲鳴』を上げながらも、母親のことを一生懸命想っていた。
『お願い!ママを助けて!』
『悲鳴』を上げながら、何度も、何度も言った。
『ママ、大好きだよ。お願い、ママを助けて!』
『悲鳴』すら上げられなくなるまで、ずっと言い続けていた。
『ママ、大好きだよ!ママ、生きて!』
『悲鳴』が聞こえなくなった。
それからほどなくして、今日の業務時間が終わった。
『笹岡』
着替えに向かおうとした俺は、荘太に呼び止められた。
『アイツの、最期の言葉ってさ、アイツのママに、伝えなきゃいけないと思うんだ』
簡単に言ってくれるが、そう簡単に信じてもらえるはずがない。
立ち止まったままの俺に、荘太はさらに続けて言った。
『翠先生は、俺たちの『声』のこと、信じてくれていると思うよ』
そして、荘太の『言葉』が何となく気になった俺は、結局救急外来に来てしまった。
翠先生の傍らで、女性が泣いているようだった。
何を言っているかは聞き取れなかったが、その重苦しい雰囲気から、きっと、彼女があの子の母親なのだろうと気付いた。
「谷岡先生、ちょっといいですか?」
翠先生は頷くと、妊婦に少し声をかけて廊下まで出てきた。
「あの人、自分のせいだって言ってた」
翠先生は、暗い表情で俯いた。
どうやら妊婦は自分で車を運転して買い物に行く途中で交通事故に遭ったらしい。
「旦那が帰ってきてから買い物に連れて行ってもらえばよかったのに、自分で運転なんかしたからって」
俯いたまま、先生は続けた。
「この子にもしものことがあったら、私のせいなんだって」
先生は、その命が失われてしまったことに気付いてしまっているから、辛いんだ。
一つの命を失った母親に、どう声をかけていいのか、わからないんだ。
『アイツの、最期の言葉ってさ、アイツのママに、伝えなきゃいけないと思うんだ』
俺の脳裏を、荘太の『言葉』がよぎった。
何が原因か、誰のせいなのか。
そんなことではない。
今、消えてしまった一つの命の真実を。
最後の最後まで、お母さんのことを大好きでいたという、たった一つの真実を。
大好きなお母さんに、生きてほしいと願った、小さな命の優しさを。
『翠先生は、俺たちの『声』のこと、信じてくれていると思うよ』
荘太の『言葉』に背中を押された気がした。
あの子の『遺言』が、あの子のお母さんの心も、翠先生の心も救うことができるのなら。
「先生に、伝えなきゃいけないと思ったんです」
俯いたままの翠先生に、俺は話しかけた。
「彼女の、『遺言』を」
先生は顔を上げた。
「あの子は、命の灯火が消えそうになりながら、『お母さんを助けて』って、叫んでいたんです」
翠先生が目を丸くしてこちらを見ていた。
その目にはうっすら涙が浮かんでいる。
「お腹の子は、最期の瞬間まで言っていました。『ママ、大好きだよ。ママ、生きて』って」
お腹の子の願いは、たった一つ。
お母さんに、生きてほしい。
お母さんが、大好きだから。
あの時、足りないものに気付かなかったら。
あの時、買い物に行こうと思い立たなかったら。
あの時、旦那さんを待とうと思っていれば。
あの時、違う道を選んでいれば。
ずっと、後悔し続けるかもしれない。
でも、赤ちゃんの願いは、ただ一つ。
お母さんに生きてほしかった。
大好きで、大好きでたまらないお母さんに、生きてほしかった。
悲しみに暮れてもいつかは、前を向いて生きてほしいと願うから、最期まで、あの子は訴え続けたのだろう。
「じゃあ俺、帰ります」
「笹岡君」
先生に背を向けた俺は、呼び止められて振り向いた。
「ありがとう」
翠先生は優しく微笑んでいた。