第2章 環境構築 / 02
――翌日
定時を数時間ほど過ぎた時刻に、運用サポート部のオフィスで、未だに煌々と明かりの灯る席が1つ。
そこで環は、モニターを食い入るように見つめ、一心不乱に仕事を進めていた。
急に休んでしまった、丸3日分の仕事。その遅れを取り戻すのは、決して容易いものではなかった。
しかし、突然、薄暗かったオフィスの蛍光灯が一斉に点灯する。
驚いた環が部屋の入り口を振り返ると、そこには電灯のスイッチに指をかけて立っている千草がいた。
「あれ?千草くん、まだ残ってたの」
千草はその言葉には反応せず、暗い廊下から部屋に入ってくると、手に何かを持って環のデスクまで近づいてきた。
「どうぞ」
そして、持っていたものをそっとデスクに置くと、何も言わずにすぐ踵を返し、部屋から出ていった。
あっという間の出来事。環が声をかける暇もなかった。
環は、千草が置いていった物体にぼんやりと視線を移す。
白いマグカップ。
ふわふわと、温かそうな湯気が立ち上っている。
とても香ばしくて、落ち着く香り――コーヒーだった。
「………」
環は、おずおずと千草が淹れたコーヒーに口をつける。
多めに入れられた砂糖の甘い味が、残業で溜まった疲労を溶かしていった。
◇◇◇
――翌々日
その日、環と千草は、新規契約になったばかりの取引先へ初訪問の予定が入っていた。
新しい訪問先へは、いつもと違い詳細な道のりが分からず、スマホの地図アプリを頼って行くこととなった。
駅の改札を出て、地図アプリで現在地を確認しながら、ゆっくりと歩いていく。
分かれ道に差し掛かって、環がルート案内されたとおりの方向へ進もうとした、その瞬間だった。
「月村さん、ここで少し待っていてください」
突然、千草が制止をかける。
環が何か言い出す前に、進行予定だった道に千草が一人で先に歩いていき――そして、しばらくした後で、元の場所に戻って来る。
「この先の道は段差が多いようです。あちらから行きましょう」
そう言って、もう一方の分かれ道に環を誘導した。
千草は、地図アプリを立ち上げると、素早く別ルートを検索する。
「案内は私が行います。月村さんは歩くことに集中してください」
そして、すぐに背中を向けて、環の歩調に合わせて歩き出す。
環は、戸惑いながらも、訪問先に到着するまでの間、何も言わずただその背中についていった。
◇◇◇
――別の日
その日、出勤した環は、いつも通り自分のデスクにつこうとして――再び、違和感を覚えた。
身に覚えのある感覚。
環はまたしても、デスクを遠目に俯瞰して、間違い探しを行う。
すぐに、今回の違和感の正体は、椅子の上にある見慣れないクッションだと判明した。
環は横で平然と仕事としている千草をゆっくりと振り向くと、若干呆れたように尋ねた。
「…あのー、このクッションってもしかして」
「営業部が来客用に買ったものが余ったそうなので、譲ってもらいました」
やっぱりか。
(…また増えた…)
軽く溜息を吐き出す。
環は、何か諦めたような気持ちでクッションの乗った椅子に腰掛けた。クッションはことのほか質が良く、環の足腰の負担はその弾力に柔らかく吸い取られていった。
◇◇◇
――また別の日
「――はい、分かりました。今から伺います」
そう締めくくって、運用サポート部にかかってきた電話の応対を終えた環は、静かに受話器を置いた。
「ごめん、ヘルプ来たからちょっとカスタマーサポート部まで行ってくるね」
急ぎの要件だったようで、環は隣席の千草に顔も見ずにそう伝えると、早々に席を立って部屋から立ち去っていく。
環がカスタマサポート部に到着すると、環の姿を見た橋本は、不安に満ちていた顔をパッと笑顔に変えた。
入り口のドアまで駆け寄って、嬉々とした様子で声をかける。
「よかった、月村さ――!?」
しかし、環との距離が残り3メートル程度というところで、橋本の動きと言葉がピタリと止まった。
橋本の視線が、環の肩越しの空間に固定されたまま動かない。
その視線の先、環の背後――そこには、ドアで半身が隠れているが、無言で立ち尽くす千草の姿があった。
「あ、あれ?千草くん、いつの間に付いて来てたの?」
橋本の反応を不思議に思い、背後を振り返った環が遅れて千草の存在に気づき、驚嘆とともにそう尋ねる。
千草は、やはり何も答えずに、ただ橋本にじっと視線を向けていた。
「……ご、ごめん!月村さん、私、やっぱり自分で何とかするね!」
急に態度を180度変えた橋本は、そう言って強引にドアを閉め、環と千草を半ば強制的にカスタマーサポート部から追い出した。
◇◇◇
――更に別の日
「今日の帰り道、駅まで送ります」
「えっ?」
退勤間際、急に千草に呼び止められた環は、その唐突な申し出に思わず驚きの声を上げた。
向かいの席で千草の発言を聞いた同僚の木村が、飲んでいたお茶を少し吹き出したのを視界の端に捉える。
「いやでも、全然近いし…」
「駅前までの道は、段差が多いです」
「…慣れてるし、さすがにそこまで」
「今日は雨が降っています。傘をさした状態では杖が使えず、危険度が上がります」
やんわりと遠慮してみたが、何を言っても即座に理屈で返され、ぐ、と押し黙る環。
「………」
千草は、環の目を見つめたまま、じっと黙り込む。
そのまま数十秒、視線が逸らせない。
根負けした環はやがて目を伏せると、深く溜息を吐き出しながら言った。
「…分かった。じゃあお願い…」
「はい、では行きましょう」
環が承諾を示すとほぼ同時に、千草は、声をかける前から既に用意していたと思しき傘を片手に、正面玄関まで歩き出した。




