第2章 環境構築 / 01
環が体調不良により急遽早退したあの日から、丸3日後。
ようやく熱と痛みが完全に消え、医師の許可が出て出勤可能となった今日――久しぶりに会社に姿を現した環に、同僚たちは目を見張って歩み寄ってきた。
「月村さん!もう体調は大丈夫?」
「はい…ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした…」
環は、同僚たちに深々と頭を下げた。
あの後、自分がやり残した処理は、他の運用サポート部のメンバー達が全て代わりにこなしてくれたということは、出勤する前から既にチャット連絡で知っていた。
――その中でも、誰より率先し、多くの仕事を片付けてくれたのは、千草だったらしい。
環は、早退したあの日の記憶を改めて辿った。
B社から帰ってからのことは、正直、熱のせいでほとんどまともに覚えていない。
ただ、タクシーに乗り込む直前、付き添いをしてくれた千草が放った言葉だけは、今でも鮮明に頭に残っている。
――私はもう遠慮しません。
――それを受け取るべきかは月村さんの判断です。
体調が回復した今になって思い返しても、その言葉の意味は分からないままだった。
ただ、あの時の千草の目と雰囲気は、明らかに普段の彼ではなかった。
もしかしたら、熱にうなされて夢でも見たのかもしれないとすら思う。
釈然としない思いを抱えながら、環は3日ぶりとなる自分のデスクに足を運んだ。
(……あれ?)
そこで、違和感。
(私のデスク、こんなだったっけ?)
環はすぐ椅子に座ろうとして思いとどまり、逆に一歩下がって、デスク全体を眺めた。
数秒ほどして、その違和感の正体が、デスク脇に置かれた見慣れない小ぶりな棚の存在だと知る。
疑問に思った環が棚の中を覗き込むと、そこには普段環が頻繁に使うファイルがびっしりと収まっていた――それも、種類ごとに分類され、完璧に整理された状態で。
「おはようございます」
その時、突然、至近距離から聞きなれた淡々とした挨拶が聞こえてくる。
棚の観察に意識を完全に奪われていた環が驚いて振り向くと、そこには、いつの間にか千草が立っていた。
「…千草くん、おはよう」
環が挨拶を返すと、千草は自分の席に座り、環に向き直った。
「体調はもう大丈夫ですか」
「うん。本当にごめんね…迷惑かけて」
「問題ありません」
不在のしわ寄せを最も受けたであろう千草に、強い罪悪感を抱いていた環は、申し訳なさそうに謝罪するが、千草は全く気にしていない様子で短く返した。
そして、おもむろに環が気にしていた棚を指差したかと思うと、
「棚、設置しました」
何食わぬ顔でそう告げた。
「えっ?」
環が思わず素っ頓狂な声を上げる。
「これ…千草くんが置いたの?」
「はい」
またしても、あっさりと答える。
「…なんで?」
「会社の余った備品の中で、丁度いいサイズがありましたので。既に上司の許可は得ています」
そういうことを聞いているのではない。
環は、心の中でそう突っ込みを入れながら、事の真偽を確かめるように、おそるおそる上司に視線を向けた。
「月村、気にするな。どうせ使ってないんだ、有効活用できて良かった。気遣いが足りてなくて悪かったな」
環の視線に気づいた上司が、穏やかな調子でそう答える。
…微妙に笑いをこらえているように見えるのは、気のせいだろうか。
環は棚の中を改めて見渡しながら、千草に尋ねた。
「あと、これ…中身って…」
「月村さんが普段使うファイルの内、過去の使用履歴から最も使用頻度が高いものを選別して、種類ごとに再配置してあります」
困惑し切った環の切れ切れな問いに、滔々と解説を始める。
「それと」
そう切り出して、千草の指差す先が、ほんの少し横へずれる。
「棚の横、簡易的な杖立ても設置してあります」
環は、千草の指差した先に視線を動かす。
棚に隠れて見えない位置だったため気づかなかったが、そこには、コンパクトながらしっかりと重さのある杖立てが置かれていた。
「以前使用していたものは、倒れやすいようでしたので。重さと長さを計算した上でバランスが最適と思われるものを、新たにもう1つ取り付けました」
解説終了。
「使用していて、問題があれば調整します。言ってください」
更に、保証付き。
言うべき言葉を失った環は、新しい杖立てに、とりあえず実際に杖を入れてみた。
多少雑に差し込んでみたが、重心はぶれず、全く倒れない。以前のものは、少し衝撃を受けるだけでぐらついてしまったため、慎重に入れる必要があった。
躊躇いつつも杖を置いた環は、ようやく自席に座ると、今度は脇の棚からファイルを取り出してみる。
全く無理なく、手を伸ばせばすぐに取ることができる。
今までファイルは全て共有の棚から、都度席を立ち歩いて取りに行っていたが、この棚があればその負担は全く無くなるだろう。
「いかがですか」
「……うん、使いやすいよ。ありがとう…」
「それは良かったです」
実際に使いやすいのだから、そう言うしか無かった。
千草は、早々にパソコンの電源を付け、何事も無かったかのように仕事を始めた。
――これが、ほんの始まりに過ぎないことを、この時の環はまだ知らなかった。




