第1章 起動 / 03
――A社でのシステム障害発生日、翌日。
(…………まずい)
その日、出勤した環は、内心で焦りをにじませていた。
―――ズキン、ズキン、ズキン……
昨日、22時頃にようやく障害報告書の作成を終え、自宅に辿り着いてから。
定時を過ぎた頃、僅かに痛んだ足が、本格的に鈍痛を訴え始めた。
一晩寝ればよくなるだろうと楽観的に考えていたのも束の間――今朝目が覚めた時は、痛みは、更に悪化していた。
心臓の脈打つ間隔に合わせて、痛みの波が定期的に襲ってくる。
「お邪魔します~。月村さんいますか?」
意識を集中させて、痛みを誤魔化しながらデスクで作業していると、ふと背後から聞き覚えのある女性の声が響く。
名前を呼ばれた環が振り向くと、出入口のドアの前でカスタマーサポート部の橋本が手を振りながら立っていた。
橋本は、屈託のない笑顔で環の元へ近づいてきた。
「おはよう。昨日頼んだ障害報告書って、どうかな?」
「…できてます。後でデータもお渡ししますね」
「ありがとう!本当に助かったよ~!」
環が用意していた書類を渡すと、橋本は胸を撫でおろす仕草をして、大げさに喜ぶ。
環はその様子に、ほっと息を吐いた。
「…でね、本当に申し訳ないんだけど、もう1つお願いがあって」
しかし。続けざまに、今度は声のトーンを極端に落として言う。
「この後、顧客説明書も作らなきゃなんだけど、私、技術的なことか全然分からないし、しかも今日会議入っちゃっててー…。申し訳ないんだけど、ちょっとだけお願いしていいかな~…」
酷く申し訳なさそうな口調で、また眉をハの字に変えて、懇願する。
――既にその手は、書類の束を環に差し出していた。
「……分かりました。これは、いつまでに?」
少しの逡巡の後、静かに了承する環。橋本の顔がぱあっと明るくなる。
「助かる!ごめんなさい、実はこれも急ぎで…。明日までなの」
「…承知しました」
「ありがとう~!さすが、月村さん」
そうして、新たな書類を残して、橋本はそそくさと運用サポート部から立ち去って行った。
「……月村さん」
その様子を隣席で黙って見ていた千草が、静かに呼びかける。
「昨日の退勤時刻、22時を過ぎていました」
目の前のパソコン上で表示されている勤怠管理システムの記録を眺めながら、続ける。
「顧客説明書の作成は本来カスタマーサポート部の仕事です。A社への説明は口頭で既に行っており、緊急の案件ではありません。戻すべきではありませんか」
千草らしい、的確で簡潔な助言だった。
しかし環は、まるで聞こえていないように、受け取った書類を改めて持ち直すと、千草に向き直る。
「ううん」
ぱらぱらと、書類を捲る。
――目を細めて、うっすらと口元に笑みを作る。
「―――これは、”私の仕事”、だから」
「………」
千草の眉が、ほんの僅かに動いた。
その時。デスクの向こう側から、別の社員が電話の送話口を手で伏せながら、環に向かって声を張り上げた。
「月村さん!B社から呼び出し。今日、行ける?」
「はい、大丈夫です」
先ほどまでの足の痛みなどなかったかのように、いつもの調子で、そう答える環。
環の返事を聞いた社員は頷くと、電話口の相手に「月村、大丈夫です。これから行きます」と伝えた。
その後、環は電話を受けた社員とともに、急ぎ足でB社へと向かっていった。
「………」
空になった、隣席。
千草は、一瞬だけそのデスクに視線をやった後、おもむろにスーツのポケットからスマートフォンを取り出した。
「あれ?千草くん、どこ行くの?」
「…少し別室で作業します。何かあれば連絡してください」
そう言い残し、千草は運用サポート部のオフィスを後にした。
◇◇◇
環たちのB社での対応は、結局、丸一日近くかかった。
既に定時近い時間に、ようやく会社に戻ってきた環。
環は、運用サポート部に到着してすぐ、自席の椅子にどさっと腰をかけて、額を両手で押さえながら俯いた。
雑に立てかけた杖が、勢いで傾いて倒れそうになる。
―――熱い。
身体中が、燃えるように熱い。
そして、足は相変わらず、ズキンズキンと朝と変わらぬ激しい痛みを訴えていた。
視界がふらふらと歪み、デスクに置いた書類の文字がぼやける。
「…月村さん、どうしたの?具合でも悪い?」
向かい側の席に座る社員が、さすがに異変に気付き、心配そうな顔で環に尋ねる。
環は、ふらりと顔を上げると、必死で平気な姿を繕おうとした。
周りの音が遠くなる。呼吸が浅い。それでも、擦れた声でどうにか言う。
「い、いえ…大丈夫で――」
「すみません、お邪魔します。月村さーん!」
その時、再び、聞き覚えのある声がフロアに響いた。
ふらつく視界でゆっくりと振り向くと、またしても橋本が来ていた。今度は、同じ部署の田村も連れてきているようだ。
朝とは打って変わって、ひどく焦った様子で環のところへばたばたと駆け寄ってきた。
「月村さん!突然ごめんなさい!実は、A社のシステム障害の再発防止会議なんだけど、上の都合で急遽明後日やることになっちゃって…!」
橋本は、環が返事をする暇もなく、矢継ぎ早に喋り続ける。
環は、くらくらする頭で、意味を飲み込めないまま、ただ橋本の言葉を受け続けていた。
「それでね、明日中に資料作らないといけないんだけど、私たちだけじゃ分からなくって、だから、月村さんも一緒に――」
「――――1時間28分」
周囲が、シンと静まり返った。
それは決して大きいと言えない声量だった。
しかし、淡々とした口調で放たれたその単語は、異様なほどにフロア一体に響き渡った。
一気に勢いを失った橋本は、その声のもと――環の隣席にいる、千草をぽかんとした表情で見つめる。
「………千草くん?どうしたの?」
頬を若干ひくつかせながら、かろうじていつもの笑顔を崩さずに尋ねる。
「これは、あなたが本日、勤務時間中に私語とスマートフォン操作に費やした時間数です」
千草は静かに、至極当然のことのように言う。
「計測しました」
スーツのポケットから、スマートフォンを取り出す。
掲げられた画面には、「1時間28分39秒」と表示されたストップウォッチのアプリ画面が表示されていた。
「…はっ?えっ?け、計測……?それ、どういう…」
橋本は、口をぱくぱくとさせながら、訳が分からない、といった顔をする。
「…今回の障害ですが」
そんな橋本の様子を一切意に介せず、千草は続ける。
「原因自体は一般的なDB接続枯渇であり、書類作成上で困難な箇所は無いはずです。よって、あなたの私語とスマートフォン操作の時間を削減すれば、十分に勤務時間内に達成可能だと推測します」
一息で言う。
ここで、ずっと口をつぐんでいた環が、「千草くん……」と心底困り果てたような、何か訴えるような表情で、千草の名前を呼ぶ。
しかし、熱と痛みで、続く言葉が出てこない。
千草は、そんな環の様子に気づきつつも、あえて構わずに、更に続けた。
「もし正式に業務配分を再検討したいようでしたら、双方の上司及び人事部を含めて打ち合わせることが最適と思われます」
怒りや、脅しているような声色ではない。ただただ、淡々と、
「どうしますか」
――問いかけた。
再び、静寂が落ちた。
「……えっーと……ごめん。なんか、そんなつもりじゃなかったんだけど……」
橋本が、白い顔をして、言い訳を探し出す。
しかし、やがて言葉が見つからなくなったのか、慌てた様子で顔をバッと上げる。
「あ、あの、やっぱり資料、こっちで何とかするね!」
そう言って、環のデスクに置いてあった、顧客説明書の資料を雑に回収した。
「じゃ、じゃあ…!」
そして、逃げるように、運用サポート部のオフィスから出ていった。
橋本が出ていった後、一瞬、水を打ったような静寂が訪れた。
しかし、すぐに千草が隣席でぐったりと椅子に座っている環に、先ほどより若干柔らかい声色で呼びかける。
「月村さん、大丈夫ですか。動けますか」
環は、何も答えられなかった。
今起きた出来事の衝撃と、未だに上がり続ける高熱によって、失いそうな意識を保つのに必死だった。
「自力で帰れそうにありませんね」
千草は振り向き、背後で呆然と立っていた、田村に向かって声をかける。
「私は月村さんを玄関ロビーまで連れていきます。タクシーを呼んでもらえますか」
「あ、は、はい…!!」
田村は、弾かれたように、近くにあった電話機から受話器を取った。
千草は、「失礼します」と言って、環の腕を引き、その肩を貸して、玄関ロビーへと向かった。
◇◇◇
――社内、玄関ロビー前。
来客用ソファでぐったりと横になった環の横に、タクシーの到着を待つ千草が座っている。
定時を過ぎた正面玄関前のフロアは、昼とは別の空間のように、全く人の気配がなかった。
「月村さん」
薄暗いフロアで、千草の声が静かに響く。
「私はもう遠慮しません。私は私の判断で、あなたの許可なく、あなたに干渉します」
その声色はまるで、機械のように単調だった。
しかし、明確に、譲れない意志を滲ませていた。
「ただし、それを受け取るべきかは月村さんの判断です。――嫌なら、止めたければ、言ってください」
選択権は、手放す。
なのに、それと裏腹な瞳の奥にこもる熱に、金縛りにあったように視線が外せない。
熱で朦朧とする意識の中、環はただ、放たれた言葉の意味よりも、そこにある異様な空気を肌で感じ取っていた。
――――例外処理、起動。




