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第1章 起動 / 01

――都内、某オフィスビル内。


始業時刻をまだ過ぎたばかりの頃。

新入社員らしい真新しいスーツと、丁寧に整えた髪が崩れるのも気に留めず、タイルカーペットの敷き詰められた廊下を全力で走る、一人の青年の姿があった。

普段、人当たりよく笑っている顔は、今は蒼白に歪められ、冷や汗が頬を伝っている。

廊下の突き当たりに到達し、角を滑り込むように曲がる。

勢いで転びかけたところを、どうにか踏みとどまり、目指す先――

――『システム運用サポート部』

そのプレートが掲げられた扉の前に到達するなり、青年は、ノックもせずに勢いよく押し開けた。


「失礼します!!」


思い切り叫ぶ。

部屋内にいた数名の人間が、驚きに満ちた表情で作業中の手を止め、顔を上げた。


「突然申し訳ありません、カスタマーサポート部の田村です!あのっ…緊急です!」


ぜえぜえと肩で息をしながら、泡を食った勢いで田村は喋り始める。


「はい、どうしましたか?」


――部屋の奥から、柔らかく、だが芯のある声が響く。


田村は顔を上げ、声の発せられた方へ視線を向ける。

長い黒髪を一つに結び、シンプルな服装に身を包んだ、涼しげな瞳の女性が、こちらを見つめていた。

田村はその視線に一瞬息が詰まるが、すぐに現状を思い出し、口を開く。


「朝一番で、A社から問い合わせが…!今朝から、基幹システムにログインできないそうで…!」

「落ち着いてください」


田村の狼狽を気に留めず、黒髪の女性は、目を伏せ、デスクの上からペンとメモ用紙を取り出す。


「状況を整理しましょう。システムログインができないんですね。症状発生は何時ごろですか?」


静かなトーンの問いかけ。それに僅かに落ち着きを取り戻した田村が答える。


「…今朝の8時20分頃だそうです」

「ログインだけですか?それとも全機能?」

「い、いえ…ログインだけです」

「……なるほど」


女性は黙り込んで、メモを取っていたペンを口元に当てる。

しばらく考える素振りをして、再び口を開く。


「A社には、現在調査中と伝えてください。復旧目安はまだ出さないでください」


淡々とした、的確な指示。

女性はデスクに向き直ると、作業を再開しようとした。

しかし、その指示に介さず、そのまま田村は話し続ける。


「あ、あの…A社、今朝から完全に業務が止まってるみたいなんです。担当の方、電話口ですごく焦ってて。それで…」


徐々に尻すぼみになっていく田村の言葉。

女性は再び視線を戻し、一つ息を吐く。


「…現地作業ですぐに説明した方がよさそうですね」


そう、すぐに方針を変えて、ペンを置く。


「私が行きます」


そう言って、今度は椅子ごと、田村の方へ向き直った。

その時、女性――月村(つきむら) (たまき)の全身が初めて視界に映り、田村は僅かに目を見開く。

膝下の黒いスカートから覗く足は、その雰囲気に似つかわしくない歩行補助器具が装着されていた。

ゆっくりと、デスクの端に手をつけて、少し寄り掛かりがちに立ち上がる。

机の脇に立てかけておいた杖に手をかけると、グリップを握った。


――足が不自由なのか。


理解した田村は、一瞬息を呑むが、慌てて環から視線を逸らす。


「月村さん、他に誰か行きますか?」


騒ぎを聞きつけ、いつの間にか環の隣に立っていた社員が、そう尋ねる。


「そうですね………」


口元に手を当てて、しばらく考え込む。

運用サポート部の社員たちは、示し合わせたかのように、今は不在にしている、ある人物の席に視線を投げた。

環は顔を上げ、同様にその空席をちらりと見ると、目の前の社員に向かってこう言った。


「千草くん、呼んでください」



◇◇◇



「来ていただいてありがとうございます。早速お願いします」


A社、システム管理部門の空気は張り詰めていた。

先ほど運用サポート部に駆け込んできた時の田村より一段と青ざめた表情のA社のシステム担当者が、挨拶もそこそこに、現地到着した環たちをサーバー室へ案内する。

サーバー室への道中では、同じような表情をして、1つの端末を複数人で覗き込む他の社員たちの姿が何回か見受けられた。


「朝からログインができないんです、社内全てのパソコンで。再起動しても無駄でした。そのせいで今、業務が完全に止まっていて…」


そう言って、目の前のノートパソコンで、改めてログイン操作を実行してみせた。

IDとパスワードを入力し、「ログイン」ボタンをクリックした瞬間、エラーが出現…そのまま停止する。


環は頷き、落ち着いた声で確認を始めた。


「症状発生は8時20分頃と伺っていますが、間違いありませんか」

「はい、間違いないです」

「それ以前は正常だったんですね?」

「ええ、全く問題ありませんでした」


メモを取る手を止めずに、次の質問へ進む。


「サーバー監視は確認しましたか?」

「はい、CPUもメモリも全て正常に動いています」

「…アプリケーションログを確認させてください」


環は、担当者に頭を軽く下げ、ノートパソコンの操作を代わった。

慣れた手つきでキーボードとマウスを操作すると、画面にびっしりと文字列が流れ出す。

数万行に渡る、システムの行動記録。


――環は振り返り、静かに背後に控え続けていた青年に、迷いなく告げた。


「千草くん、お願い」


名前を呼ばれた黒髪の青年――千草(ちぐさ) 文人(あやと)は、その表情を一切動かさないまま、すっと前に進んで環の横の椅子に腰をかける。

ノートパソコンを自分の手元に移動させると、無言で画面をスクロールし、流れていくログの文字群を目で追っている。

その無機質な表情からは、一切の思考も、感情も読み取れない。


「ログイン処理が失敗しているのでしょうか…」


その様子に、心配に満ちた表情で、システム担当者が声をかける。

ふと、千草が指の動きを止めた。


「違います」


単調な、機械のような声色で、告げる。


「ここです」


そう言って、画面に表示される大量の文字列の、ある一か所をスッと指差す。

システム担当者は、不可解そうな表情でその指の先を覗き込んだ。


DB connect

DB connect

DB connect

DB connect


「DB接続…?」


システム担当者が小さく声を漏らす。


「接続が閉じていません」


千草は、続けて淡々と告げていく。


「connectの後にcloseがありません。接続が増え続けています」


その報告を聞いた環が、素早く反応する。


「現在の接続数は?」


環の質問に、再び千草が無言で画面操作を行う。


「現在、336。上限は30です」

「さ、336…!?」


システム担当者が驚きに目を見開いた。


「でも、どうしてこんな…」

「昨日の夜間バッチです」


困惑したシステム担当者のくぐもった疑問に、再びログ画面をスクロールしながら、千草が間髪入れずに答える。


「接続増加は、午前2時から。夜間バッチの開始時刻です」


夜間バッチの処理開始時刻のログが表示されたところで、再び該当箇所を指差す。


「原因はDB接続枯渇。接続数が上限を超えています。バッチ処理を停止すれば復旧可能です」


キーボードとマウスを操作する手を止め、千草はあっさりとそう告げた。


「…昨日のシステム更新のせいかも。帰ったら開発部に確認しよう」


目を伏せた環は、そのまま思考を巡らせている。


「…もう原因が分かったんですか?」


同行していたカスタマーサポート部の田村は、信じられないような表情でそう漏らした。

過去、障害対応で何件か現場に立ち会ったことはあるが、これほど即座に解決したケースは一度もなかった。


「ログに出ていますので」


千草は、何でもないことのようにそう答えた。

初投稿です。環と千草をよろしくお願いします。

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