優しい人
あの人は、優しい人だった。
誰にでも親切で、頼まれごとは断らないし、重い荷物を持っている人を見ればすぐに手を貸す。子どもにも、お年寄りにも、同じように笑っていた。
だから、みんなに好かれていた。
――少なくとも、私はそう思っていた。
最初に違和感を覚えたのは、会社の後輩が辞めたときだった。
「急に来なくなったんですよね」
同僚は困ったように言った。
「え? 退職の挨拶もなしに?」
「え? 誰の話です?」
後輩の名前を出すと、同僚は首を傾げた。
「そんな人、いましたっけ?」
おかしい。
彼は確かにいた。
毎日顔を合わせていたし、飲みにも行った。
だが、机は片付けられ、名簿にも名前はない。
最初から存在しなかったみたいに。
次は、近所の八百屋だった。
気さくな店主で、いつもサービスしてくれていた。
ある日店が閉まっていて、数日後にはシャッターに「テナント募集」の紙が貼られていた。
「ここ、昔から空き店舗ですよ」
隣の店の人はそう言った。
そんなはずがない。
だが、写真も、レシートも、何も残っていない。
消えている。
人が。
最初からいなかったみたいに。
気味が悪くなって、あの人に相談した。
優しいあの人なら、何か分かるかもしれないと思った。
「気のせいじゃない?」
あの人は、いつもの笑顔で言った。
「疲れてるんだよ」
「でも――」
「大丈夫」
肩を軽く叩かれる。
「気にしなくていいよ」
その手は温かくて、少し安心した。
優しい人だから。
きっと、私の勘違いなんだろう。
家に帰って、ふと思った。
――あれ?
どうして私は、
この人の名前を知らないんだろう。
スマホの連絡先を開く。
登録はある。
でも、名前の部分だけが空白だ。
写真もない。
メッセージ履歴も、途中からしか残っていない。
心臓が嫌な音を立てる。
思い出そうとするほど、
記憶がぼやけていく。
優しい笑顔だけが、はっきり浮かぶ。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開ける。
あの人が立っていた。
「大丈夫?」
優しく笑う。
「顔色悪いよ」
名前が思い出せない。
どこで出会ったのかも分からない。
でも、怖いとは思わない。
だって――
「俺は、優しい人だからさ」
そう言って、
あの人は、私の肩に手を置いた。
その瞬間、
――ああ。
消えるんだ。
私も。
優しい人に、優しくされて。




