手の甲に触れた大きな手は
手の甲に触れた大きな手はあたたかく、目の前の人物が間違いなく生きていることを感じさせた。
その人が、浅緋の知らない言葉で何かを言った。その声が心地よい低音で、ようやくその人が男であることを知る。
とはいえ何を言われているかはわからず、その男のヴェールで隠された顔を見上げるほかない。と、手元でパキリ、と軽い音がした。
何事かと目をやり、驚く。両手が自由になり、割れた手錠が男の手の中にあった。明らかに金属製で重量感もある手錠だったのに、これも魔法の力なのだろうか。
男は跪いたままだった仮面の老人を立たせると手錠を手渡し、しばらく言葉を交わしていた。聞くともなしに聞いていると、再び浅緋のほうに顔が向けられる。
男は浅緋の顔を真っ直ぐに見て、何かを言った。同じ発音が再び繰り返されるが、さっぱりわからない。浅緋が困り果てて首を傾げると、男と老人が顔を見合わせた。
男が浅緋の方に向き直る。再びその手が持ち上がるが、今度は額に手が当てられた。
瞬間、頭の中を風が吹き抜けるような感覚があった。
「これでどうだ」
一瞬、意味が分からなかった。少し遅れて、黒い男が発した言葉だと気付いた。
「え、あ、わかります」
浅緋が慌てて返事をすると、黒い男は安堵したように小さく息を吐いた。が、その嘆息を、老人の方は違う意味に取ったようだった。
「申し訳ございません、陛下。まさか話すことができるとは思わず」
老人が深く頭を下げると、黒い男は「構わん、私も気付かなかった」と頭を上げさせた。
「まったく、奴らも言語魔術くらいかければ良いものを」
男は独り言のように呟いてから、浅緋の方に向き直った。
「すまなかった、異世界人よ。改めて、私はラピス。そちらの仮面をつけた男は、従者のスタルだ。……人間たちは私を、『魔王』と呼ぶ」
「魔王……」
ファンタジーでしか聞かない響きを、思わず復唱する。怒涛の展開すぎて、脳みそが処理落ちしそうだ。
と、その時、ぐう、と気の抜けた音が響いた。
一秒ほど経ってから、自分の腹の音だと気づき、顔が熱くなる。気付けば、空腹は既に限界を超えていた。そりゃあ何も考えられないわけだ。
ラピスと名乗った男は、ふ、と笑うように息を漏らした。
「何か、食べるものを用意しよう」
ラピスが言って目配せすると、すぐさまスタルが部屋を後にした。二人きりになった部屋で、ラピスは静かに椅子に座り、向かいの椅子を指さした。
「疲れただろう。座ったらどうだ」
お言葉に甘えて、着席する。椅子は見た目以上に柔らかさと弾力があった。肩の力が抜ける感覚があり、そこでようやく、自分が緊張し続けていたことに気付いた。
「異世界人よ、名はなんという」
「浅緋です。贄川浅緋」
「浅緋か。事情はどの程度知っている」
突然の問いに、浅緋は「え、事情?」と首を傾げた。
「人間たちと我々の関係や、異世界人については?」
「ええと、そもそもオレが異世界人って呼ばれてる意味もわからないです」
「なるほど、よくわかった。つまり、なにもわからないのだな」
浅緋は「すみません……」と力なくうなだれた。
「謝ることは無い。事情なら、私から後で説明しよう。……ただ、その前に言っておくことがある」
ラピスの声色が真面目なものになり、浅緋は顔を上げた。ヴェールで覆われた顔は相変わらず見えないが、隠された目は浅緋を真っ直ぐ見据えているように感じられた。
「私は、浅緋を傷つけるつもりはない」
続けて、「もっとも、信じられないかもしれんが」とラピスが自嘲する。
「信じます」
考える前に、声が出ていた。顔は見えないが、ラピスが驚いている気配を感じる。
「……なぜ」
少しかすれた声で、ラピスが呟く。その瞬間、目の前の男の素顔を感じたような気がした。威厳や風格を全てはぎ取った、まっさらな声だった。途端に、浅緋は、まとまらない考えをなんとか言葉にしたいと思ってしまった。
「オレ、まだ何も分からないんですけど、白い光に包まれてから、ずっと変なこととか怖いことばっかりで……でも、あなたは、ラピスさんは、オレのことをまっすぐ見て、まっすぐ話してくれるから、信じたいと思ったんです」
……やっぱりまとまらなかった。
もっと上手く言えただろ、と自分でも思う。あまりの拙さに赤面して下を向いていると、「ラピスで良い」と声がした。
「え?」
「呼び方。ラピスで良い。敬語も不要だ」
「え、でも、王様なんですよね?」
「私は、浅緋の王ではない。それとも、何か不満か」
ラピスがなぜか、そっぽを向きながら言う。
もしかして、照れてる?
もしくは、拗ねているのか。いつの間にか、最初に感じた圧倒的な存在感は、感じなくなっていた。
「わかった。じゃあ、ラピス」
浅緋が言うと、ラピスは「ああ」と頷いた。その顔は何となく笑っている気がして、ヴェールの下を見てみたい、と思ってしまった。




