神という存在がいるとしたら
神という存在がいるとしたら、もしかするとオレのことがあまり好きじゃないのかもしれない。
そんなことを考えながら、贄川浅緋は檻の中から客席を眺めていた。客席に並ぶ人々はフィクションのような仮面を着けており、見ていると夢と現実の境目が曖昧になってくる。この状況も悪い夢なのではないかと楽観的に考えたくなるが、空腹感と激しい喉の乾き、そして殴られた腹の痛みがそうさせてくれなかった。
気を失っていたため正確にはわからないが、恐らく丸一日はまともに飲み食いしていない。最後に食べたのは確か、昼食のハヤシライスだった。その後、午後の講義を受けに大学へ向かう途中、信号待ちをしていたところで唐突に光に包まれたのだ。
それ以降のことは、あまりにも目まぐるしくて正確には把握しきれていない。気付けば浅緋は、近くにいた同年代の青年とともに、高そうなタイル張りの床に倒れていた。周りを取り囲む人々は口々に知らない言語で何かを言い合っていたかと思うと、青年を丁重に、浅緋を乱暴に立たせ、それぞれ違う場所へと運んで行った。
浅緋が連れていかれたのは、明らかに正規の出口ではない、暗く狭い抜け穴だった。穴を抜けて外に出ると、馬に引かれた荷車がやって来た。その荷車があからさまに檻であることに気付いた浅緋は、ようやく慌てて逃げ出そうと抵抗した。が、馬を引いていた屈強な男に思い切り腹を殴られ、それ以降記憶が無い。
そして、目が覚めた時には舞台裏に檻ごと置かれており、あれよあれよという間に舞台に上がっていたのだ。
これ、多分あれだよね。闇オークションってやつ。
フィクションでしか見たことがないが、フィクションでなら何度か目にしたことのある光景を前に、他人事のようにぼんやりと思う。あまりにも腹が減って、これからのことを考える余裕はない……というより、考えたくもない。
そうこうしているうちに、競りが始まっていた。番号札のようなものを掲げながら、知らない言語を口にする人々。よく分からないが、恐らく価格を言っているのだろう。
と、一人の男が朗々と口にした言葉に、会場がざわついた。人々は顔を見合せながらも、それ以上番号札を掲げる素振りは見せない。少しして司会らしき声が入ったかと思うと、男が立ち上がって一礼した。
へえ、あの人に決まったんだなあ、などと眺めていた浅緋は、ふと我に返った。
あれ? これ、オレが売れたってこと?
間抜けなことに今更気付いた浅緋は、ようやく慌て始めた。
浅緋は、別に見目が良いわけではないと自覚している。ということは、労働力だろうか。人並み程度には動けるだろうが、重労働だったら困る。いや待て、こんないかにもな闇オークションで労働力を買うことがあるか? まさかあの男、とんでもなく特殊な性癖の持ち主だったりするのだろうか。どうしよう、そういった経験は乏しいのに。
浅緋がぐるぐると考え込んでいるうちに、檻は舞台裏に戻されていく。最初に待たされた物置のような場所で檻から出るよう指示され、半ば引きずられるように連れてこられたのは、裏口だった。外はすっかり夜になっており、闇に紛れるように黒塗りの馬車が停めてある。
見張りの男に乱暴に背中を押されて馬車に乗り込むと、浅緋を買ったあの男が座っていた。相変わらず仮面を着けたままの男は、馬車の椅子を手で示した。座れ、ということらしい。
浅緋が大人しく着席すると、馬車が動き始める。まさか手錠つきで馬車に乗ることになるとは、人生何があるか分からない。
馬車の中は重苦しい沈黙で満ちていた。話を聞きたいがそもそも言葉がわからない上、男は会話を拒むように格子窓の向こうを見つめたまま微動だにしない。仕方なく男を観察していて、気が付いた。この男、背筋はしゃんと伸びているが、仮面の下に覗く首筋や手を見るに、おそらく高齢だ。
この馬車でしばらく進むのかと思ったが、五分ほどすると仮面の老人が御者に何かを伝え、すぐに停車した。老人は浅緋にも席を立つよう促して、馬車の外へ降り立った。どうやら路地裏の通りのようで、閑散としている。本当にこで良いのか疑わしいが、老人は御者に紙幣のようなものを握らせると、馬車を見送った。
馬車が完全に見えなくなると、老人は浅緋に向き直った。その手がすっと持ち上がり、浅緋の視界を閉ざす。何だろうと思った、その時だった。
世界が、ぐにゃりと歪んだ。
いや、自分が歪んでいるのだろうか。身体が無限に引き伸ばされ、それと同時に無になるまで圧縮されているような感覚。頭で捉えられないようなこの感覚を、しかし浅緋は知っていた。すべての元凶である、あの白い光に包まれた時と、よく似ている。だが、あの時は冷たい光に包まれていたが、今回はあたたかい闇に包まれている。そこだけが違いだった。
その感覚は、終わりも唐突だった。突然自らの身体を認識できるようになったかと思うと、何かに捕まろうとした手が空を切った。足は地面を捉えられず、ぐらりと倒れ込みそうになる。
しかし、痛みは訪れなかった。気付けば、あの老人が片腕で浅緋の身体を支えていた。
自分の足で立ち直し、伝わるか分からないが、老人の仮面を見上げぺこりと頭を下げてみる。老人は静かに頷いた。言葉は通じずとも、どうやら意思の疎通はできることに、ほっとする。
辺りを見ると、先程までの路地裏は嘘のように消え去り、目に映る景色は部屋の中に変わっていた。
瞬間移動、という言葉が頭に浮かぶ。何が起きているのかはまだよく分からないが、とにかく常識が通用しないことは間違いなさそうだ。
部屋は、これまでに見たことのあるどんな内装とも異なった。しかし、上等な部屋であることは、一目でわかった。壁も、部屋の中央に置かれたテーブルと四脚の椅子も、見事な彫刻が施され、ところどころにはめ込まれた色硝子が不思議な色合いに輝いている。床に敷かれた絨毯も、黒の中に、落ち着いた、しかし様々な色が織り込まれていた。
黒で埋め尽くされた部屋なのに不思議と居心地が良いのは、テーブルの上の洋燈が、あたたかい光を放っているからだろうか。
綺麗だ。
浅緋は、自らの状況すら忘れて、その内装に見とれた。
その時、唐突に部屋の扉が開いた。そこに立っている人を見て、浅緋は固まった。
いや、人、なのだろうか。確かに人のかたちをしてはいるが、ただならぬ気配を纏っている。身長は、二メートルを超えているかもしれない。顔にはヴェールがかかっていて、目鼻立ちはわからない。くすんだ薄青色の髪は長く、白い服を纏った背中へこぼれ落ちている。それだけでも異様な風体だが、浅緋が驚いたのはそこではない。
肌が、漆黒なのだ。
その黒は、光を吸収し尽くすような黒だった。肌の色の違い、という次元ではない、本物の、黒。
その人は、浅緋のほうへ悠然と近づいてきた。浅緋の隣にいた仮面の老人が、静かに跪く。
偉い相手なら自分も跪いたほうが良いのだろうか、と思いつつも、浅緋は動けなかった。その圧倒的な存在から、どうしても目が離せないのだ。
その人は浅緋の目の前で、浅緋を見下ろして立ち止まった。その手が静かに、手錠をかけられた浅緋の手に触れた。




