EP6夜を越えるために〈逃げた夜に臨む〉
屋敷の広間は、静かだった。
焦げ跡と崩れた家具が散乱し、かつて宴が開かれていた面影はない。
朝の光が天窓から斜めに差し込み、埃が舞う。
アカネは札を滑らせる。
式文様が床に広がり、探索の式が立ち上がる。
「……いる。二体。動いてない」
ミリは短剣を握り直す。
「なら、狩れるね」
だが、空気が軋んだ。
式が揺れ、札が震える。
──現れたのは、二体のアマツ。
一体は人型。黒い式膜を纏い、顔は影に沈む。
もう一体はミノタウロスのような巨体。蹄と角を持ち、式文様が皮膚に刻まれていた。
人型アマツが、静かに語りかける。
「それは、いい。札に刻んだのは、願いでも呪いでもない。……お前の選択だ」
「だが──お前は、あの夜を越えていない」
アカネは札を握り直す。
焦げ札が脈打ち、記憶が揺れる。
──村が燃えた夜。姉が奪われ、言葉が出なかったあの瞬間。
ミノタウロス型アマツが、重く語る。
「責任ある者が、刃を持つなら──果たせ。お前の責務を」
「逃げた者に、火は応えぬ」
「その刃は、誰のために振るう?」
ミリは短剣を握り直す。
笑みは消え、目だけが鋭く光る。
──サラマンド王国を逃げた夜。母の呪いを聞かされたあの瞬間。
空気が軋み、式が脈打つ。
2人の“夜”が交差し、言葉が空間を揺らす。
アカネは札を展開し、ミリは構えを取る。
だが、まだ戦いは始まらない。
語りは続いていた。
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サラマンド王国2年前
式塔の鐘が午前を告げる。王城の回廊に、爺やの叫びが響いた。
姫さまーーっ!また講義をサボられましたな!
座学、ダンス、マナー、礼法。王族としての“型”を叩き込む講義が、今日も空席だった。
爺やは庭園へと走る。赤い花が咲き乱れる式庭の奥、噴水の裏に気配を感じる。
姫さま……また、あの場所ですか。
噴水の縁に腰かけて、ミリアリアは空を見上げていた。
だって、退屈なんだもん。座ってるだけで王族になれるなら、誰でもなれるでしょ?
爺やは眉をひそめる。だが、叱るよりも先に、少しだけ微笑んだ。
姫さま……王族とは、座る者ではなく、立つ者でございます。
ミリアリアは水面を蹴る。小さな波紋が広がり、揺れる。
じゃあ、私は立つよ。誰にも決められない場所で。
爺やはその言葉を、胸に刻んだ。この子は、枠に収まる器ではない。だが、王族は枠を守る者。責務を刻む者。
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式塔の会議室は、火の灯りが静かに揺れていた。
王族の紋章が壁に浮かび、空気は重く、乾いていた。
サラマンド王が口を開く。
その隣には、青い礼服を纏ったウォルガリアの使者が立っていた。
ミリアリア殿下。ウォルガリアより、正式な文書が届いております。
使者が手紙を差し出す。
封蝋には水の紋章。魔晶石の供給元であることを示す印。
サラマンド王は視線を落とさず、続けた。
式塔の維持には、水の魔晶石が不可欠だ。
この国の火は、水がなければ燃え続けることができぬ。
ウォルガリアとの関係を強固にするため、第四王子グラウス・ヴェルド殿との腰入りが望ましい。
ミリアリアは手紙を受け取らず、窓の外を見ていた。
砂漠の風が、遠くの塔を揺らしていた。
グラウス殿は、魔晶石の管理に長けておる。
年齢は離れておるが、王族としての責務を果たすには、申し分ない。
使者は一歩前に出た。
香油の匂いが、火の灯りに混じって漂う。
ミリアリア殿下。王子は、あなたの到着を心待ちにしております。
ミリアリアはゆっくりと振り返った。
その目に、火のような光はなかった。
私は、誰かの待ち人になるために生まれたわけじゃない。
サラマンド王は沈黙した。
使者は眉を動かしたが、何も言わなかった。
爺やは部屋の隅で、ただ頭を下げていた。
あの日の噴水の言葉が、胸に焼き付いていた。
ミリアリアは、窓の外に広がる砂漠を見ていた。
乾いた風が火の塔を揺らし、遠くの空が白く霞んでいた。
責務。
その言葉は、いつも誰かの口から発せられる。
王妃の声で、王の声で、使者の声で。
けれど、自分の声ではなかった。
水を繋ぐために。
火を絶やさぬために。
国のために。
誰かのために。
その“誰か”に、自分は含まれていない気がした。
私は、誰かの待ち人になるために生まれたわけじゃない。
でも、誰かのために立つことを、否定したいわけでもない。
ただ、選びたい。
誰のために立つかを。
誰のために、夜を越えるかを。
ミリアリアは、何も握らず、ただ立っていた。
火の灯りが揺れていた。
それでも、彼女の影は揺れなかった。




