EP2 語られぬ名、火に揺られ:〈語り手は目を閉じる〉
風が止んだ。
霧は焚き火の熱に押されて、わずかに後退していた。
ミリは膝を抱えて座り、アカネは立ったまま、遠くを見ていた。
「ねえ、アカネくん。ルビスって、どんなとこなの?」
「……語られすぎた街だ。」
「語られすぎた?」
「物語が溢れた。誰もが語り、誰もが忘れた。構造が崩れ、言界が歪んだ。」
ミリは眉をひそめた。
「じゃあ、アマツが……」
「兆しはある。カルマの濃度が異常だ。語札が焼けるほどに。」
アカネは腰から一枚の札を取り出した。
それは、依頼札ではなく、彼自身の“記録”だった。
札の端が黒く焦げていた。
「……それ、あんたの?」
「俺の語式が、アマツに触れた。」
ミリは立ち上がった。
焚き火の光が彼女の瞳に映る。
夜が深まり、焚き火は静かに燃え続けていた。
ミリは丸めた外套に頬を埋め、浅い眠りに落ちていた。
アカネは眠らない。彼の瞳は、霧の奥にある“歪み”を捉えようとしていた。
風が一度だけ、逆向きに吹いた。
その瞬間、霧がわずかに裂け、空気が軋んだ。
アカネは立ち上がる。
足元の石が、ほんの僅かに沈んだ。
「……構造が、ずれた。」
彼は地面に手を触れた。
冷たい。だが、冷たさの“質”が違う。
それは、記憶のない冷たさ——語られたことのない温度。
ミリが目を覚ました。
「……なに?もう朝?」
「違う。まだ夜だ。だが、何かが起きた。」
ミリは立ち上がり、霧の向こうを見た。
「……見えないけど、なんか、空気が変わった。」
アカネは頷いた。
「ルビスの境界が、揺れている。構造が、外から触れられている。」
ミリは拳を握った。
「アマツ?」
「まだ“名”は呼ばれていない。だが、輪郭が現れ始めた。」
霧の奥に、街の影が浮かび上がる。
崩れた塔、歪んだ門、そして、語られすぎた記憶の残骸。
アカネは歩き出す。
ミリがその背に続く。
夜の終わりが近い。
だが、構造の始まりは、まだ遠い。
―――――――――
夜が明けアカネ達は歩を進める
少し歩くと
霧の奥に、街の影が浮かび上がる。
崩れた塔、歪んだ門、そして、記憶の残骸が風に晒されていた。
ミリは足を止めた。
「……ここが、ルビス?」
アカネは頷いた。
門は開いていた。だが、誰も通った形跡はない。
石畳の上に、語札の燃えかすが散っていた。
「語られすぎた街だ。構造が、語りを拒絶している。」
ミリは札を拾った。
焦げた文字は、途中で途切れていた。
「これ、誰かが語ろうとして……途中で消えた?」
「語式が破綻した。語りが、街に拒まれた。」
ミリは札を握りしめた。
「……じゃあ、あたしが語る。拒まれても、喰われても、語る。」
アカネは門を見つめた。
その奥に、歪んだ空間が揺れていた。
「気をつけろ。ここでは、語ることが構造を壊す。」
「それでも、語る。」
ミリの声は静かだった。
だが、確かに響いた。
二人は門をくぐった。
霧が背後で閉じ、街の空気が変わった。
ルビスの内部は、語られた記憶で満ちていた。
壁に刻まれた言葉、地面に染み込んだ声、空に浮かぶ断片。
そして、遠くで何かが目を開けた。
まだ名は呼ばれていない。
だが、“アマツ”は、確かにそこにいた。
門を越えた瞬間、空気が変わった。
霧は街の中では沈黙していた。
代わりに、空間そのものが“語られて”いた。
壁には言葉が刻まれていた。
「彼は戻らなかった」「あの日、声は届かなかった」「記憶は、ここに残る」
それらは誰かの語りではなく、街そのものの“反響”だった。
ミリは歩きながら、壁に手を触れた。
「……これ、誰かが書いたんじゃない。街が、語ってる。」
アカネは頷いた。
「語られすぎた結果だ。構造が、語りを模倣し始める。」
「じゃあ、ここにいるだけで、語られてしまう?」
「可能性はある。だから、言葉を選べ。」
ミリは黙った。
だが、彼女の瞳は壁の奥にある何かを見ていた。
路地の奥から、微かな音がした。
それは足音ではなく、“語りの残響”だった。
アカネが立ち止まる。
「……来るぞ。」
ミリが短剣に手をかける。
「語られし者?」
「いや。これは、語られた記憶の“模倣体”だ。」
霧のような影が、壁から剥がれ落ちる。
それは人の形をしていたが、顔がなかった。
代わりに、胸元に“言葉”が浮かんでいた。
「……『わたしはここにいた』」
ミリが息を呑む。
「それって、誰かの……」
「語られなかった記憶が、街の構造に吸収され、形になった。」
影が動いた。
その動きは、語られたことのない“痛み”のようだった。
アカネが前に出る。
赤眼が開き、言界術が展開される。
「この模倣体は、語りの残響に過ぎない。」
空気が裂け、影が崩れる。
だが、崩れた先に、もうひとつの影が立ち上がった。
それは、言葉を持たなかった。
ただ、空白のまま、こちらを見ていた。
アカネが目を細める。
「……アマツの輪郭だ。」
ミリは震えながら、言った。
「じゃあ、あたし……語るよ。名前を呼ばれる前に。」
アカネは頷いた。
街が、静かに彼らを見ていた。